【備忘録】新約聖書ヨハネの福音書の谷口雅春氏による解説

「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、

神の子どもとされる特権をお与えになった。

この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、

ただ、神によって生まれたのである」

(ヨハネの福音書第1章12‐13節)

コトバが創造主であり、そのコトバが自分に宿って自分の生命になっているという

真理を受け信じた者は、神の子となる権を与えられている…

世を照らす光…それはお前の生命の中に宿っているではないか。

その光を見よというのであります。

見るということは知ることであり、知ることが信ずることなのであります。

「わからんから信ずるほかはない」というような「信」は

本当の「信」ではないのであって迷信であります。

…自己の実相を「神のイノチ」であると、如実に「知った者」が神の子…

ヨハネ伝には皆神の子である、皆すべての人間に神の栄光が宿っている、

そうして皆輝いている、皆父の独り子であるということが書いてあるのであります。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。

それは、御子を信じるものが、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。

神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、

御子によって世が救われるためである。

御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、

すでにさばかれている。」

(3章16‐18節)

「神のひとり子」というのはイエス・キリストのみのことだと思うのがいけない…

我らの中にすでに「ひとり子」が宿っているのであります。

神の「ひとり子」をみんな与えられておるのにそれがわからないので、

知らせるために代表的に「ひとり子」であるという自覚を得た人がイエス・キリストであって

その時代にはイエス・キリストだけしか自覚がなかったから、

イエス・キリストだけが「ひとり子」であったということになるのであります。

人間はみな神のひとり子であるけれども、それを自覚しなければひとり子でないのも同じこと

光が満ちておっても、目をつぶっていれば闇であるのと同じことであります。

「父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。

御子を信じる者は永遠の命を持つが、御子に聞き従わない者は、命を見ることがなく、

神の怒りがその上にとどまる。」

(3章35‐36節)

我々人間に万物を皆委ねられている…一切を自分の自由に支配しうる

自分の生命が「神の子」の生命であると信ずる者は、肉体が死んでも、

肉体は単に自分の生命のさやであるにすぎないと知っていますから、

結局永遠の生命を持つことになるのであります

「神の怒り」とは…神が怒るという意味ではないのであって、

麦を蒔けば麦が実るという因果の法則によって、

自分の心が神の子の実相に…従わなかったならば、実装円満の姿が現象界に現れず

不自由な姿・不快な姿というものが客観世界に姿を現してくるものであることを

擬人法をもって書かかれている

「私を遣わした方の御心を行い、そのみわざを成し遂げることが、私の食物です」

(4章34節)

自分がこの世に神の生命を受けて生みだされているその使命を活かそうと考えない人が沢山

御心を行うことが最高の栄養食である、この栄養食を食べないでいながら、

「病気が治りたい」なんて思っても、ご飯を食べないでいながらお腹をふくらましたい

と考えているほどなかなか難しいことであります。

病人というものは利己主義者であります。

「父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。」

(5章19節)

「すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。

子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。」

(5章23節)

神は創造者であるが、人間も自分の心によって自分の世界を自己創造する

…神を敬う者は、神の子たる人間をも敬わねばならない。

人間を尊敬しない者は神を尊敬しないことになります。

イエスは他の場所で

「すべての罪は許されるけれども聖霊をけがす罪は許されない」

人間の本質は聖霊でありますから、人間の本質を尊敬しない者は神を尊敬しないと同じになる

病気とか不幸というものは神のつくりたもうたものではないから、

あるように見えても存在しないのであります。

あなたの生命は神様の生命だから病気はない

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠の命に至る食物のために

働きなさい。」

(6章27節)

現世利益のみを目的に喜んで人々がやってくるのをイエスは非常に苦々しく感ぜられた

永遠の生命を与えたいと思ってやってきたのである

肉体の生命はいくら長生きしても百年余りの生涯である。

そういう朽ちる宝のために働いては働き甲斐がないのである。

肉体が死ぬときにも持っていける宝ー永遠の生命に至るための糧として働け

現世利益は今あるかの如く見えても、しばらくして消えてしまうものである

肉体的にのみ生きている人々にとっては、

自分の生命は物質のパンで生きているように思っている。

「人はパンのみにて生きるにあらず、神の口より出る言葉による」

神より出る生命波動で生きているのであります。

「私を遣わした父が引き寄せられない限り、誰も私のところに来ることはできません」

(6章44節)

神縁・仏縁というものがなかったならば、来たくても来ることができないのである。

人間のほうからこの宗教を信じようと自分の思慮分別によってその宗教を良いと判断して入信

したように見えますけれども、…自分のうちに宿る神性(内在するキリスト)が、

本源なる親様(天の父)と霊交共感するからであります。

「汝ら我を選びしにあらず、我汝らを選べり」

(罪を犯した女性に対し最初に彼女に石を投げなさい」

(8章7節)

この世界は神の世界であって罪人も本来なければ罪をとがめる人も本来ない、大調和の世界

と思念しておられたことでありましょう。

罪の語源は「包み」でありまして、円満完全な姿を包み隠しているのが「罪」(ツツミ)

いくら包んでいても円満完全な姿の価値は決して減らない、包んである間は見えなく罪はある

「この包みは私の本物ではない」と知る、悔恨し懺悔をする

すると包みは開かれて円満完全の「人間・神の子」の本当の姿が現れます。

そうするともう罪はないのであります。

包みを開いてしまったら、もうそれは包みではないようなものであります。

「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にします。」

(8章32節)

イエス・キリストの言われた「自由」とは、仏教でいえば解脱であり

何物にも縛られない状態であります。

しかし当時のユダヤ人たちにはこの意味が分からないのであります。

自分たちはアブラハムの子孫であって他の民族の奴隷になったことはないから

最初から自由であって今まで自由を失ったことはない、彼らにとって自由とは

制度上の自由のような外部的なものだと思っている。

いくら制度上で人間が解放されましても、自分の心が自由にならなければ、

人間は真に自由になれないのであります。

神のつくりたもうたこの世界に、悪魔という神の敵があるなどという考え方は

神を絶対者と信ぜず、神を冒涜するところの考え方なのであります。

…「神の敵」「悪魔」と連発し、それでいて「汝の敵を愛せよ」と

矛盾だらけで本当にキリストの教えを説いているのではなく

「キリスト教」というレッテルを貼った中でユダヤ教が説かれているにすぎない

レッテルはキリスト教でありますけれども、中身はキリスト教ではない

以上です。

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