今さら聞けない神道の考え方!神道はなぜ自然を敬うのか?

目の前にある食べ物があるとして、それは自分とは別物だと、一般に考えがちです。

栄養を取る・空腹を満たす対象物に過ぎないと。

二元論的です、これとあれは別物と。

ところが日本の伝統的考えでは別物ではなく、

食べ物も自分と一体をなすととらえます。

食べ物を食べる、そうすると身体と同化します。

一体になります。

ご存知の方は多いでしょうが、

肉や魚などたんぱく質は、筋肉や皮膚などになります。

米や小麦など炭水化物は、エネルギー源となります。

野菜や果物に含まれるビタミン・ミネラルも、

神経や内臓の機能を動かすのに使われます。

活性酸素を抑えて病気になりにくいようにする機能もあります。

文字通り、血となり肉となります。

この食べ物は自分自身である、

ただ時間系列で食べる前はまだ自分の身体となっていないだけ、

そうとらえます。

食べ物と自分の身体に差があると見ないのです。

一元論的にとらえます。

私たちの身体と一体になる食べ物に敬意を表し、

昔はお膳に乗せました。

畳敷きの部屋で食事をするから、お膳があるといい、という利便性だけではありません。

利便性だったらお盆でもいいじゃないですか。

月(にくづき)に善を組み合わせた漢字、これにその心が表れています。

作法にも残っています。

●箸は食べ物とこちら側を区切る結界として横に置く

●箸を食べ物に突き刺さない

●食べ残さない

●食事中は話しないで食べることに集中する

●よく噛み細かくして一体化できるようになる

●じっくり味わうことに専心

●「いただきます」「ごちそうさま」は身体に取り込む食べ物に対して

米や野菜や果物は、大地に育まれたものです。

土からの恵みを私たちは得ています。

肉だと、豚や牛は草やトウモロコシなどを食べて育ちます。

その草などは大地に生えるので、肉を食べても間接的に土の恵みを得ます。

地は血、人は土からできている、といわれるゆえんです。

食べ物をいただくことは、その産地のパワーをいただくことです。

神社参拝した時は、その土地の食べ物をいただくことで、

さらに神様の氣をいただける、といわれるのもそのためです。

このため土・地を大事にします。

産土様とか、土地の守り神・鎮守様・氏神様とか。

神棚にお祀りする神札も、その土地の鎮守様・氏神様のです。

家を建てるときは地鎮祭を執り行います。

その土地の神様に建築の挨拶をするお祭りです。

これらは大地の恵みをもたらしてくれる神様のことです。

仕事などで行った土地の神社に参拝すると上手くいく、のも

その土地の神様・氣により恵みをいただけるということです。

日本人は土地に対する思いが特に強いようです。

土地をきれいにする掃除もその表れです。

別の観点からも書きます。

細胞は定期的に新陳代謝して、食べたもので新しい細胞ができます。

大便の半分は役割を終えた細胞の死骸だそうです。

汚いなんてとんでもない!

今まで胃腸や血液や免疫で尽くしてきてくれた細胞たちなのです。

ありがとうと感謝の気持ちで送り出したいものです。

この大便に神様が宿るとされます。

ハニヤスヒコ神・ハニヤスヒメ神といいます。

身体に食べ物が入ってきて命が維持され、

交代で排泄される物質もある、このような循環です。

この循環の上に私たちの命が成り立っています。

食べ物も身体も、この循環の一部分にすぎません。

ある炭素原子は、たまたま今は食べ物だけど、身体になっていることもある、

今は排せつ物になっているけど、時間がたてば食べ物に代わっていることもある、

のです。

だから食べ物も身体も排せつ物も、差を設けないのです。

さらに呼吸についても、

空気は目に見えないので、存在やありがたみを実感しにくいものです。

その空気を私たちと別と思いがちですが、一体です。

吸った酸素が血液に溶け込んで、脳や内臓や筋肉を動かします。

その酸素は、森が光合成で作り出したもので、

森の木々も土から栄養分を得て、山や雨から水分を得ています。

細胞から出された二酸化炭素は、吐き出されて空気の一部になります。

これも森の木々に吸収されて酸素に代わりますが、

森の木々はやはり土や山、雨などのサポートを受けています。

人も森も山も雨も、大いなる自然の循環の一部です。

互いに結び合いながらバランスを取りながら生きています。

動物の死骸・枯れた植物があっても、

分解されて土に戻り、また新たな生命体にかわる循環。

この絶妙さから自然を神として尊ぶのです。




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