【わかりやすい神道】これでわかる!日本人が自己主張下手なわけ

こんにちは、古神道研究家のヒデです。

なぜ神道や神社では教える・伝えることを積極的にしないのか?

疑問に思っていました。

たとえば…

キリスト教や仏教などは説法・集会などで、

神父・牧師・僧侶が神や仏のことを教えてくれます。

しかし神社の神職はそのようなことをしません。

キリスト教には聖書、イスラム教にはコーラン、仏教にはお経があり、

これらを読むとそれぞれの教えがよくわかります。

しかし神道にはそのようなものはありません。

本屋に行けば、キリスト教や仏教の本はたくさんあります。

しかし神道の本は全国の神社やパワースポットのガイドブックが圧倒的に多いです。

最近は古事記や神様についての本が出てきましたが、それでも少ないです。

また日本人はあまり議論・自己主張をしたがらないと言われます。

自己主張をしようものなら、

「口先ばかり」「こざかしい」「理屈っぽい」などと嫌われます。

これに対して海外では、自己主張をしないと存在しないものとして無視されます。

口先や理屈っぽいのは大事なのです。

なぜこのような違いがあるのでしょう?

結論を言うと、

日本人に大きな影響を与えている神道は、言葉化を極力避けている、ことにあります。

詳細を以下説明します。

この記事の目次




1.言葉の不十分さ

まず言葉だけでは十分に伝わらないことが挙げられます。

中国古典の『荘子』にこのような話があります。

殿様が縁側で読書をしていると、屋根の工事をしていた大工がのぞき込みます。

「何の本を読んでいるのですか?」

殿様が聖賢の書物だと答えると「その人は今生きていますか?」と質問。

殿様はその聖賢はもう亡くなっていると答えたところ、その大工は

「ではその本はカスですね」。

殿様は激怒!

「これのどこがカスだ!説明しろ。ワシを納得させられないのなら首をはねてやる!!」と。

それではと、大工は冷静に説明します。

「私は車大工なので車作りに例えてお話しします。

車(平安時代の牛車のようなもの)の車輪(木製)は丸く作りますが、

どうしたら丸くできるかは自分の手と頭で試行錯誤しないとできません。

『車輪は丸く作れ』としか言いようがありません。

また車輪に車軸を通す穴を開けますが、

狭いと車軸が入らないし、広いと車軸が抜けてしまいます。

どうしたら丁度よい大きさの穴になるか?

自分で体験して身につけてもらうほかありません。

子や弟子たちに言葉で説明してわかるものではないのです。

どうすれば伝えられるか?なかなかうまく伝えられず、はがゆいものです。

その本の著者もたくさんご存知のことがあったでしょうが、

十分伝えられず亡くなったのでしょう。

生きていれば、こういうことだと説明できたでしょうに、

もう亡くなっているのでそれもできません。

かろうじて言葉・文字にできたことだけが本になっている、

おそらく全体のごく一部なのでしょう。

だからカスだと申し上げたのです」

これを聞いて殿様は納得。

世の中は言葉で説明できないことばかりです。

ゾウの姿を見たことがない人に説明するのは至難です。

江戸時代の人は、人伝えに聞いたのを絵にしたら怪獣のようになってしまったとか。

高さが3メートル、皮膚は分厚くて木の皮みたい、人間の腕の長さくらいの牙がある、

1メートルの長さの鼻がある、耳は畳1畳近くの大きさがある、重たくてドシドシ歩く、

数十キロの重さの物を軽々と持ち上げる、鼻で丸太をくるんで持ち上げる、鳴き声が馬や牛よりずっと大きい

…こんな話を聞いたら、怪獣に思うでしょう!?

またリンゴの味を説明するのはほぼ不可能。

他人の話を聞いても、経験したことがないと実感がないので、

ぼんやりした印象になってよく理解できないものです。

あるいはそれに近い過去の経験に照らして、自分なりの想像をしてしまうとか。

そこで神道では、不十分な言葉に重きを置いていません。

姿・あり方を示し、あるべき生き方を見つけてもらうのです。

神職の仕事は、アイロンがけした白い着物を着て境内を掃き清める…

ただそれだけです。

「言挙(ことあ)げせず」といいますが、

神々の教えを伝えることはしません。

世界には、形の文化と言葉の文化があるといわれます。

日本は前者です。

言葉だけではわからない、形・動きを見ないとわからない。

「見て覚えろ」というのです。

職人の見習いなどはこれです。

室町時代に吉田兼倶という神道家がいます。

「神道に書籍なし。天地をもって書籍となし、日月をもって証明となす。」

という言葉を残しました。

本で学ぶのではなく、世の中をよく見て学んでいけ、というのです。

以上のことをよく表しています。




2.教えないでわかること

そもそも神々もそんなに教えを残していません。

というのは、

「教えられないとわからないのか?」

教えられることは恥、気付くよう一歩引いて見守るという伝統があります。

人はそもそも神々の子孫だから神と捉えます。

キリスト教やイスラム教のように、ゴッド・アラーと人は全く別物とは考えません。

神道では人も神とつながっている・連続しているのです。

それぞれの人は素晴らしい存在だから、説教はふさわしくないと考えるのです。

教えなくても時間かかってもいいから、わかるだろうという信頼が根底にあります。

それに加えて言葉では上っ面しかわからないから、

自分から積極的能動的に体験して、試行錯誤して気づく方がよい、のです。

ただしそうは言っても自分で気づくのは難しいです。

かつては祖父母や近所の人たちから少しづつ教わる習慣がありました。

今はそういうことがほとんど無いので、伝えていくことが必要だと思います。

3.言葉は怖い

言葉で説明するのは難しく、

言葉が一人歩きを始めて、真意とかけ離れることもあります。

誤解を生む恐れもあります。

日常生活で何度も実感します。

4.言葉はトラブルの元

また言葉を重視すると議論・喧嘩・戦争になります。

何それ?と思いませんでしたか。

「自分が正しい、お前は間違っている」

「白黒はっきりつける」

だと争いになります。

「こうであるべき」と決めつけるないから、争わないのです。

みんなOKなのです。

「灰色でいいということか?」ではありません。

白も黒も灰色も区別せず、あるがままに受け入れるということです。

というのは

「~でなければならない」「違ってはならない」という枠があると、

この枠からはみ出す人・物・事・考えは排除されてしまいます。

●掟に背くと村八分にされること

●教義の違い~カトリックとプロテスタントでの殺し合い

●自分たちと違う考え・知識・技術を持っていると魔女として虐殺

●人種・民族の違いでのホロコースト

また枠で自分自身が拘束されてしまい、自由な発想・行動が出来なくなります。

神道の神は、ゴッドやアラーのように全知全能ではありません。

未熟ですが、失敗や試練を乗り越えて成長して行く話が、日本神話(古事記・日本書紀)です。

神々はみんな未熟で迷惑をかけあう、お互い様だから、許し合うのです。

「全知全能である」「完璧である」という枠があったら、神々もみな不合格です(笑)。




5.枠無しの例

言葉にしないことの理由からやや脱線しますが、

枠を作らないのは言葉に限らない例をあげます。

●日本家屋

障子・ふすまを取り払えば大広間になる

テーブルなくても御膳を出してくれば食事になる

居間・子供たちの遊び場になる

他の人たちを呼んで会議場・宴会場にもなる

ふすま・屏風・衝立で部屋を仕切ることもできる

布団しいて寝室にもなる

…多目的ホールのようなもので、

「ここは居間でそこは食堂であそこは寝室」などと部屋を決めつけません。

枠を作らずあいまいだから、柔軟な運用・発想が出来ます。

●着物

その人のためだけと考えないので、

親子何代にもわたって着れるよう、

着物は緩く作ります。

袖や裾は長さを変えたり、腹囲に合わせて帯で調整したり。

家臣も主君の着物を着たりします。

6.皆受け入れる

清濁併せ持つという言葉がありますが、 天地は善人も悪人も受け入れます。

区別するのは人間です。

区別していたら有用なものを使えなくなります。

糞尿・汚物を人間は汚いと感じますが、天地自然はそうではありません。

糞尿にハエがたかりますが、中でも人間の糞尿は大人気(笑)

牛など家畜のよりたくさんたかります。

地球上でもっとも栄養価のあるものを食べている人間の出すものは、ハエにとっては美味しい。

糞尿は野菜の肥やしに使われていたぐらい大事なもの。

江戸時代は便所でくみ上げた糞尿を農家が買い取り、

明治時代でも糞尿を運ぶ貨物列車があったりしました。

植物や微生物の食べ物となる糞尿には、

ハニヤスヒコ・ハニヤスヒメ・ミズノハノメという神名がつけられているのです(古事記)。

完璧なものはなく、

完璧・完成・成功・金持ち・貧乏・失敗・未完は人間が勝手に決めているのです。

例えば持っているお金がこれこれ、ただそれだけです。

7.言葉も形も両方必要

言葉は必要ないなどというわけではありません。

両方必要です。

●喜びも悲しみも両方味わう

喜びだけあればいいというのは不自然です。

禍の神様と幸の神様は実は一緒です。

神話には災いの神様が出てきます、大禍日神(オオマガツヒ)、八十禍神(ヤソマガツヒ)です。

と同時にそれを直す神様、大直日神(オオナオヒ)が出てきます。

災いも悲しみもあるのが自然なのです。

●美しさと醜さ

神話に、美しいコノハナサクヤヒメと結婚したいと思ったら、醜いイワナガヒメもついてきたという話があります。

前者は美しいけど花のように寿命は短い、後者は醜いけど岩のように寿命は長い。

良いとこ取り・一方だけ取るのはできないという考えです。

●生と死も一緒

山・森にはキツネやウサギなど多くの生き物が暮らしていますが、それらの死骸もあります。

川や海には魚の死骸があります。

しかし悲壮感はありません。

生と死は対立するものではなく、隣り合わせにセットで存在するのです。

神道では、昼活動しているのを生、夜眠っているのを死に対比して考えます。

朝が来れば起きて活動し始めるのと同じように、死ねばまた新しい人生になるのです。

起きれば眠るのと同じく生まれれば死ぬ、この繰り返し。

ワンセットなのです。




8.言霊信仰

「言挙げせず」には、

言葉には強力なパワーがあるから、むやみに言葉にしない、という考えがあります。

言葉は現実を引き寄せます。

●子供に「こぼしちゃだめよ」と言って味噌汁を運ばせたら、案の定こぼした

●満員電車で嫌なことがあって、「今日はついてないな」と思っていたら、

会社の仕事もミスした

●「いつも上手くいかない」と愚痴をこぼしていると、表情が暗くなるので、

会う人を不快にさせ、

モチベーションが下がるので注意力も散漫に⇒実際に上手くいかないことばかり

だから言葉に注意します。

思うことも気を付けます。

言葉で責任が生ずるので、なるべく言葉を短くします。

俳句・短歌も、くどくど説明するのではなく、

物になぞらえて情緒的にズバッと斬り込みます。

ダイレクトに「物悲しい」などと言いません。

言葉にしたら、物悲しさが実現してしまうからです。

晩秋の枯れ枝から葉がはらはら落ちる情景で物悲しさを表現します。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。




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