江戸繁栄のために家康が行った、パワースポット化~神社寺の配置と言霊

こんにちは、古神道と風水の研究家ヒデです。

江戸は小さな漁村に城下町を築き始めてから

100年ほど後の享保(江戸時代中期)で

100万都市になり政治や経済、文化で繁栄しました。

この理由を

政治・経済政策側面や都市計画側面で解説していることが多いですが、

パワースポット化の側面から書きます。




1.家康入府時の江戸村の状態

①江戸城すぐそばまで海が迫る

徳川家康が1590年に江戸に来た時、

江戸は寂しい漁村だったそうです。

江戸城のすぐそばまで海が迫っていました。

これを日比谷入江と言います。

「ひび」とは海苔の養殖に使う、

海に設置する柵を意味するそうです。

江戸湾は、浅草海苔・大森海苔というように

かつては海苔の産地でした。

日比谷入江は、

今の新橋あたりから日比谷公園、有楽町、丸の内あたりまで

広がっていたようです。

そのせいか、有楽町駅から皇居外苑の方へ歩くと

ゆるやかな下り坂です。

地盤沈下なのか、建物の入り口と道路の高さが異なり、

階段がある建物もあります。

下は国土地理院の地形図に加工し、

1590年当時の地形図(推定)にしたものです。

青色が海です。

②平川も流れ込む

この日比谷入江の前方に江戸前島という半島があったようです。

今の東京駅から銀座あたりです。

ここに中世の江戸村がありました。

東京駅の地下工事では板碑や人骨が発掘され、

この辺りに墓地があったようです。

この江戸の前の海が、

「江戸前寿司」などと言われるように

江戸前という海の幸豊かな漁場でした。

江戸城の目の前に平川という川が流れていました。

これは今の神田川です。

井の頭や善福寺を源とする川で、

杉並区や中野区、新宿区に降った雨を集めて

流れる川。

氾濫するとせっかく海を埋め立てて造った平地が

水浸しになります。

そこで川を付け替えて東に流しました。

これが今の日本橋川です。

上の地図で濃い青の川です。

さらに隅田川にも流しました。

これがお茶の水や秋葉原を流れる神田川です。

2.江戸を繁栄させるため

①四神相応のパワー

小さな漁村だった江戸を京の都のように繁栄させるために、

大規模な普請(土木工事)を行いました。

神田山(今の駿河台)を切り崩して、

日比谷入江を埋め立てて平地を作りました。

ようやく町らしい形になった江戸の

運を開けさせるため、

神社や寺を配置してパワーアップを図りました。

そのために運気の良い場所の真似をしました。

具体的には、千年の都京都を手本にしました。

京都が繁栄しているのは、

風水が良いからだとその真似をします。

最強の風水は、四神相応だと言われます。

●東に青龍

●南に朱雀

●西に白虎

●北に玄武

というパワーのある地形があると、

その場所に本拠地を置く家・政権は栄えるというのです。

地形・大地には力があるから、その力をいただきます。

中国・朝鮮風水はこの地形は異なりますが、

日本風水では以下のようにします。

京都は

●東の青龍は鴨川

●南の朱雀は巨椋池(今は干拓されてありません)

●西の白虎は山陰道

●北の玄武は船岡山(あるいは貴船山や鞍馬山)

これを江戸になぞらえると

●東の青龍は隅田川

●南の朱雀は江戸湾

●西の白虎は甲州街道

●北の玄武は…日光

京都に比べて規模が大きくなっています。

大きいことでパワーも大きいのです。

②京都に似せる~東叡山寛永寺

さらに京都に似せることで、京都のように運気アップさせます。

京都の東側には鴨川が流れているので、

隅田川は鴨川。

京都の北東鬼門の方角には比叡山があるので、

上野の山は比叡山。

比叡山の寺は比叡山延暦寺なので、

上野の山は東叡山寛永寺。

東の比叡山と年号を取ってます。

③神田明神を鬼門の方角に

上の地図のように、

江戸城の鬼門(北東)を守るのが神田明神、

裏鬼門(南西)を守るのが日枝神社です。

両神社の祭り~神田祭と山王祭は、

天下祭りとして江戸城内にも祭りの神輿が入るなど、

徳川将軍家から重要視されました。

同じく北東の方角にある浅草神社も重要視され、

その三社祭も江戸の三大祭の一つとされます。

実は神田明神は最初から今の場所にあったのではありません。

もともとは

大手町、将門公首塚があるあたりにありました。

江戸城大手門の真ん前です。

神田明神は江戸時代までは平将門公のみを祀る神社でした。

そのため将門公首塚の場所にあり、

首塚も神田明神の境内です。

江戸城の真ん前で城の中に入ってしまうから、

神田明神を移転させたと一般にはされています。

それもあるとは思いますが、もっと強い理由がありました。

家康は将門公を江戸の守り神にしようとしました。

平将門公は平安時代中期に諸事情で

朝廷に対して反乱を起こした人物です。

民衆思いで関東では英雄とされてきました。

朝廷からは日本三大怨霊として恐れられました。

政権を取った家康は江戸幕府を盤石にするため、

将門公の力を得たいと思ったのでしょう。

江戸城の鬼門の方角に神田明神を移し、

江戸の守り神としたのです。

だから今でも神田明神は江戸の総鎮守とされます。

神田明神の移転先は、

本郷台地の湯島台といわれる現在の場所です。

東側が東京低地のがけで、

北も東も谷でちょうどそこだけ盛り上がっています。

南もゆるやかに下っています。

このような場所が神社の遷座地に選ばれることが多いです。

④不忍池は琵琶湖

比叡山のふもとには琵琶湖があります、不忍池がこれにあたります。

琵琶湖になぞらえて、

そこに浮かぶ島の弁財天は、琵琶湖の竹生島弁財天。

上野の山の清水観音堂は、京都の清水寺。

だから不忍池を望む舞台があります。

京都と比べて足りないのは皇族なので、

上野の輪王寺に皇族出身のお坊さんに来ていただいたのです。

⑤言霊の力を利用

このようなやり方は家康が初めてではありません。

東京の北部に王子という場所があります。

北区で京浜東北線、上野と赤羽の間です。

なぜ王子という地名なのでしょう?

鎌倉時代にこの地を支配していた豪族の豊島氏が、

熊野の神を信仰していて、

若王子神社を勧請しそれが今の王子神社です。

王子神社のふもとに石神井川が流れています。

今は東に進んで隅田川に流れ込んでいますが、

昔は南下して不忍池に注ぎ込んでいました。

王子付近では音無川と呼びます。

これも熊野本宮大社のそばを流れる音無川

をとっています。

熊野本宮大社はかつて大斎原(おおゆのはら)という、

熊野川の中州にありました。

このあたりで熊野川に合流する川が音無川。

本宮大社に参拝する人は、

橋のかけられていなかった音無川の水につかり清められて、

本宮大社を参拝したのです。

だから王子神社のそばの石神井川も音無川と名付けたのです。

ほかにも王子神社の南側の丘陵を飛鳥山と名付けました。

飛鳥神社の祠があったからとも、

熊野の新宮市に阿須賀神社がありそこからとったとも、

いわれています。

そこに江戸時代中期の将軍吉宗が、桜を植えさせました。

当時桜の名所が上野の寛永寺しかなく、

徳川の寺で規則が厳しく、

しかも夕方門が閉まってしまうため夜桜見物ができなかったのです。

そこで庶民が自由に花見できるスポットとして、

飛鳥山ができました。

山に桜がたくさん植えられているさま~

山岳修行・修験道の吉野に似ています。

遥か北の日光に江戸幕府初代の家康の墓所(東照宮)、

南に来て王子は熊野、

その南に飛鳥と吉野の桜、

上野は東叡山寛永寺。

このようにパワースポットを「創作」して

江戸を守ろうとしたのです。

長くなりましたが、家康が重要視した上野の話題に入ります。

3.上野の名所

①噴水(根本中堂跡)

上野公園内でも氣が良いとされるスポットです。

かつてはここに寛永寺の根本中堂がありました。

戊辰戦争の上野戦争で、旧幕府方の彰義隊が立てこもりました。

そこで官軍は大砲を打ちこみ、

根本中堂をはじめとした建物は焼け落ちてしまったのです。

②東照宮

家康公を祀る神社で、強運のスポットです。

戊辰戦争で上野に彰義隊が立てこもった時、

南西の不忍池方面から官軍は大砲を打ってきました。

多くの寛永寺の建物に着弾し焼けたのに、

東照宮には被害はありませんでした。

関東大震災で周りは焼け野原になったのに、東照宮は無事でした。

鳥居も震度6でも倒壊しませんでした。

東京大空襲のときも、焼夷弾が神社境内に落ちても不発で

被害がありませんでした。

そのため強運のスポットとされます。

本殿・拝殿は江戸時代初期の建築、

金箔の社殿が美しい。

左甚五郎の彫刻も素晴らしいです。

日光の東照宮も素晴らしいですが、こちらもいい。

一枚の板を表と裏から彫って、

葉っぱや鳥や水流を形作った、職人技です。

登り龍と下り龍の彫刻も。

ビッグサイズのお化け灯篭もあります。

東照宮の鳥居の外側にありますが、

高さ6メートルと、自宅庭に置いたら二階の屋根に達する高さです。

日本三大灯篭の一つですが、

残り二つは、

京都南禅寺と名古屋熱田神宮です。

③清水観音堂

京都の清水寺の舞台に似せて、上野にも舞台があります。

月の松という松の輪から不忍池弁天堂を眺めることができます。

④不忍池

かつては石神井川が流れ込んでいたので、

大きな池だったようです。

石神井川は皇子で隅田川に流路を変えたので、

不忍池の水量は減ります。

不忍通りを作るため埋め立てられたりで、

大正時代の半分程度の面積になったとのことです。

ひっそりとして訪れる人がほとんどいませんが、

もともとの弁天島です。

かつては橋が架かっていなかったので、

船でここまで来たようです。

⑤花園稲荷と五條天神社

寛永寺を作る前に住んでいた狐が、

家康のブレーン天海僧正の夢に現れ、

「住処を奪われるので、なんとかしてほしい」

そこで祠を作ったのが花園稲荷の起源。

五條天神は、

日本武尊がここを通ったときに薬の神様を祀ったのが、

起源と言われます。

つまり五條天神社は薬・医療の神様・神社です。

⑥上野大仏

寛永寺の敷地で薬師如来の大仏が建立されました。

関東大震災では倒壊し、

保管していた大仏像の各部分も

戦時中は金属を軍需物資として提供したので、

顔面しか残っていません。

「もうこれ以上落ちることは無い」

(落ち切ってしまった)

ということで合格祈願にご利益があるとされます。

⑦摺鉢山古墳

正岡子規記念野球場のそばにあります。

立て看板がありますが、気づきにくいです。

円形の小高い丘で、休憩所になっています。

一見すると古墳の頂上に見えませんが、前方後円墳の後円部です。

前方部は低くて木が生い茂っており、わかりにくいです。

どのような豪族が埋葬されているのか、わかっていません。

かつて五條天神社がここに置かれ、

寛永寺造営のため五條天神社は現在の社地に移されました。

清水観音堂が置かれたこともあったそうです。

寺社がおかれていたため、古墳は削られることなく存続できたようです。

⑧西郷さん銅像と東側のがけ

上野で最も有名なスポットでしょう。

上野の山・台地の南の端で、

眼下には標高差10メートル近くの東京低地。

上野広小路の町並みが広がります。

縄文時代はここから千葉県の下総台地(市川)まで海でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。