神道を学ぶ上でとても有益な本の紹介をします。(詳しく書いたため、長文です)
『神道と日本人』葉室頼昭著 春秋社
葉室氏は昭和2年生まれ。
大阪大学医学部卒、医学博士、外科医・形成外科医でありながら
55歳で神職になるための大阪国学院に入学、神職の最高位・明階を取得。
藤原氏の家系出身者しかなれない奈良・春日大社の宮司を務められた方です。
医学・科学の視点からの神道のお話が特徴的です。
今回はこちらの本で、
葉室氏の語り口・ニュアンスをぜひ届けたい個所は抜粋し、
それ以外は要約しました。抜粋はその旨、明記しております。
この記事の目次
神さまを喜ばせると、恵みを下さる仕組み
(抜粋)人間というのは認められ感謝されると一番うれしいですね。女の人でも「きれいですね」というと喜ぶでしょう。男でも「あなたは素晴らしいな」と認められ、誰でも「ありがとう」と感謝されるとうれしい。神さまもうれしいんです。だから、神さまを喜ばせるには感謝して認めることなんです。「神さまは素晴らしいですね」と祝詞で言っているわけでしょう。そして巫女さんが神楽を舞う。舞って神さまをたたえている。神さまを認めてすばらしいというと、神さまは喜んでくださる。それだけと言えば、それだけです。本質はすごくシンプルなんです。
そうすると、神さまは願い事などをしなくても、ちゃんとやってくださる。祈りというのは、そういうことなんです。他の国でみられるような必死になって自分の願い事を祈っている姿とは異なり、神道では神さまを喜ばせる、感謝するということが祈りなんです。こちらから頼まれなければやってくれないというのは、神さまを冒涜することです。神さまというのは全部知っておられるんです。だから、神さまを認め、喜んでいただいたら、十分なんです。そうしたら、神さまはこちらに出てきて、お恵みを下さる。
(小林:
神社は神さまをおもてなしする場所。
●祝詞:神さまをたたえて喜んでもらう
●装束:神さまに失礼のないきれいで立派な服装
●神饌:お酒や野菜・米など美味しいものを召し上がっていただく
●神楽・舞:音楽や踊り・物語で楽しんでいただく
●祭り・神輿:ダイナミックさを楽しんでいただく
●掃除:神さまはきれいなところが好き
●参拝作法:神さまに敬意を表す)
キリスト教でも仏教でもいいんですが、それらの宗教がどうして出てきたかというと、キリスト教はイスラエルの砂漠地帯から出てきたわけですね。仏教はインドの混沌とした大地から釈迦が出てきたでしょう。だから結局、環境の厳しいところから出てきたものだから、自分の周りを変えなければ生きていけない。そのために祈る。これがキリスト教でも仏教でも、宗教の核心になっているわけです。
ところが日本は違います。自然に恵まれている。自分の周りを変えなくても自然が豊かにある。だから、何にもそんなことをしなくてもいい。ただ感謝していたらいいんです。これが神道とほかの宗教との違いです。発生した風土が違うんですね。
だから神道には決して武力で何とかしようというのはないんですね。神道が戦ったという歴史はありません。自然に恵まれているから、周りを変えてどうこうしようということは、日本人にはないんです。ただ感謝する、これが神道の核心です。
この神道の祭りにみられる、「神さまをひたすらお喜ばせし、生かされていることに感謝する心」は、日本人が持っている素晴らしい生活の知恵だと思います。現在は「はたらく」というと労働という考えがありますが、「働く」という漢字を書くから本当の意味が分からないのです。これは「はた」と「らく」という日本語です。すなわち「はた」は周囲のこと、「らく」は楽しむという意味ですから、周囲の人を喜ばせる、というのが日本人の「はたらく」という意味です。
戦後の日本人は、祖先が伝えてきた生活の知恵をすべて捨ててしまい、民主主義とか自由とか言うことをはき違えて利己主義の人が多くなり、自分の目先の利益だけ考え、他人のことや、ましてや日本の国のことなど全く考えないようになりました。しかしわれわれ日本人の遺伝子の中には、祖先から伝えられてきた歴史の記憶が入っておりますから、現在でも日本人ほど相手のことを考える民族は、世界のどこにもいないと思います。
外国文化も排斥せずに取り入れた
(抜粋)…人間の体というのはどんなものを食べても、自分のものによみがえらせて自分の栄養にします。食べたお肉をそのまま体の中に取り入れたら肉は異物ですから、当然拒否反応が現れて生きていくことができません。だからお肉を食べたら位で消化して、腸で自分のものに変えて体内に取り入れているわけでしょう。自分のものとは違うものを食べても、みんな同化するんですね。自分の栄養にしているわけです。これが自然の姿でしょう。それを生活そのものとしてやっているのが日本人であって、日本人の根底にはそういう神道の考えというのがある。仏教が入ってきても、それを自分のものにして、さらに豊かに生きようとするわけです。そこが諸外国と違います。外国にもいろいろな宗教が入っていきますが、それらはみんな個々別々なんですね。
…日本の仏教は中国やインドなどの仏教とは性格が異なります。…あれは日本人が自分のものにしてしまった宗教なんですね。
日本人は何でもかんでも取り入れて自分のものにするというすごい特色があります。世間では、物真似するとか、オリジナリティがないと日本をけなしますが、そうではなくて、これが本当なんです。排斥しない。何でもかんでも自分のものにする。排斥したら生きていけないわけです。
そしてこれが本当の神様の世界です。神道があるから、仏教が入ってきても排斥しないで、自分のものに変えてしまった。例えばお盆やお彼岸にしても、あれはもともと日本に古来からある祖先の供養です。いまの人は、あれは仏教の行事だと思っている人が多いんですが、これはもともとの仏教が変わってきた証のようなものです。
そのように、自分のものにして争わない。自分のものとして取り入れて、神道は神道、仏教は仏教としてあるけれども、日本の中では混然となっているでしょう。ですから今神仏が別々になっていても、祝詞を上げているお寺はいくらでもあります。春日大社でも正月には興福寺のお坊さんが来てお経をあげています。そういうことは外国では考えられないことです。キリスト教の教会でお経をあげるなんて言うことは考えられない。日本人は平気でやっています。それは何でも自分のものにしてしまうという、世界にまれなる特色があるからです。だから、仏さまも神さまも同じく大切にしているのです。
(小林:七福神も、日本の神様は恵比寿様だけです。
毘沙門天様・弁財天様・大黒天様はインドの神様。
布袋様・福禄寿様・寿老人様は中国の神様。
外国の神様も取り入れています。
キリスト教の教会/イスラム教のモスクに、
仏様や神社の神様が祀られることは考えられないでしょう。
それだけとんでもないことです。
中国のラーメン(シナそば)を日本風にアレンジして
ラーメン、冷やし中華、ざるラーメン等にアレンジしてしまう。
本場のインド人が決して食べないビーフカレーを考案、カレーパン。
イタリア料理にはない、しらす/明太子などの和風ピザ。
欧米にはない、あんドーナッツ。
戦国時代には物真似して、世界中の火縄銃の半分を大量生産。
しかし何でも物真似するわけではなく、中国大陸の宦官(かんがん:去勢した男性官僚)、
欧米の植民地制度(現地人を奴隷にする)は採用していません。)
多民族でもお互い同化してしまった
(抜粋)民族でもそうです。日本人というのは、北の方からも南の方からもいろいろな民族が入ってきたわけでしょう。それが一つに同化してしまっている。ところが、外国は違います。同じ国でもいろいろな民族がいて、同化しないから、いまだに民族同士で戦っています。世界中にいろいろな民族がいて、国のタガが外れたらお互いに喧嘩しているでしょう。日本人はそうではない。これはまれなる民族です。
日本人は共存しようとするのですね。これは人間同士だけではありません。自然やほかの動物とも、共に生きようとする。奈良の鹿…道路でも鹿は恐れずに悠然と横切っていく。車はじっと待っているしかありません。…クラクションを鳴らしたりしません。しょうがないなと待っている。お互いが相手を認め合っている。まさに共存ですね。
…鹿という生き物がまた予知能力がすごいのです。鳴き声とか何かで、これから嵐があるとか、地震があるとか、そういう天変地異を告げていると思うんです。いまの人間はそれがわからないだけなんです。昔の人はそれがわかったから、鹿の鳴き声や様子を見て、天変地異を知って対策をする。そうやって鹿に守られていた。その代わり今度は人間が鹿を守る。神の使いだということで、鹿を殺してはならない。人間がいるから他の動物も鹿を襲わない。鹿も人間に守られている。お互いに共存ですね。
…昔は自然も破壊しなかった。畑は作っても、必ず森は残したわけでしょう。生物も生き、人間も生きるという共存の世界をずっと続けてきたんです。
(小林:古事記・日本書紀の神話にも、
日本列島にいた国津神から、後から来た天津神が国譲りされた話があります。
違う民族が一緒になって日本列島に住み始めたということです。
弥生時代から大陸よりたくさんの渡来人がやってきてこの狭い島国で共存しています。
その証拠は、それぞれの時代の特徴に表れています。
●丸顔の縄文人
●細顔の弥生人
●独特なファッションの古墳人
●漢字が使われ始めた(中国・朝鮮半島から渡来人が大勢来たため)
●仏教・儒教など様々な文化は渡来人がもたらしたから
●東大寺正倉院には、ペルシャの品々が収められている(ペルシャ人も来た?)
●津軽・秋田・越(こし:新潟県から福井県にかけて)にはシベリア沿海州にあった渤海という国から使節がやってきた(日本に住み着いた人もいるのでは?)
これらの人たちが、「日本人」となっています。)
神道が宗教ではない理由
(抜粋)神道というのは宗教という範疇を超えた、日本人の生活そのものだと私は思うのです。この神道を離れた生活というのは日本人にはないわけです。神さま、あるいは祖先を氏神として祀り、そのおかげで生かされている。これが基本です。すべてこれなんですね。
ですから、祭りをやって神さまに感謝し、ご先祖に感謝する。そうすれば、神さまは我々を助けてくださる。だから、祈願するのではないのです。ただ神さまをお喜ばせすることだけを考えることが大事です。自分のことを考えるのではないんですね。
…外国人から見ると自然崇拝やシャーマニズムに見えるけれども、日本人はそういう信仰は持っていない。日本人は信仰がないとか、新人がないといわれるけれども、その意味では全くその通りであって、外国人の言う信仰、宗教は日本人はもともと持っていないわけです。生活そのものが神を祀り、祖先を祀り、それによって生かされている。これが日常の生活で、日常と離れた生活というのは日本人にはないから、あまりこれを宗教とも考えてこなかったんです。そのように考え方が全く違うわけでしょう。
…欧米人たちは文明・文化を発達させましたが、精神的な生活は薄れてしまったでしょう。反対に自然の中で今でも質素な生活をして生きている人たちは、とても高い精神的生活を送っているけれども、我々の考えるような文明・文化とは縁がない。私はこの両方を持っている民族が日本人だと考えています。いまの日本人は文明・文化の中にどっぷりつかって生活していますが、我々の祖先から受け継がれてきた伝統、日本人の心を取り戻して、この二つを調和させることができたらすごいことになると思います。…それをやって世界の人のお手本になること、そのための日本人に神さまが作られたのだろうと思います。
悩みを手放せないなら、感謝で置き換える
(抜粋)外国の方がいかにも優れているように思って真似をしたために、日本人の心がなくなってしまったという状態なんです。ただし無くなったのではなくて、ただ忘れただけですから、原点に返ってもう一度思い出そうというのが、今なんですね。その記憶は遺伝子の中に入っている。だからもう一度思い起こせと。
…私が医者で手術をしていた時でも、…病気をつかんでいる人は、どんなにいい治療をしてもいい結果が出てこない。いま病気で悩んでいるでしょう。この悩みを心から離せといっても、ちょっとやそっとでは離れられない。
そこで祓いなんです。祓いというのは、我欲を消すということです。物体を消そうといっても、これを粉々にしてしまってもそれは小さくなっただけで物体は消えない。これを消そうと思ったら、これを他のものに変えなければ消えないでしょう。
患者さん今つかんでいる病気を放せといっても離さない。…そこで私がやったことは、神さまに感謝することです。…感謝の方に変えるわけです。そうすると、病気をつかんでいた心が神さまの方によみがえるわけでしょう。病気を離せといっても離れられない。それを感謝の心によみがえらせるわけです。そうすると消えるんですね。
悪を消そうと思っても、たいていのことでは消えない。これを神さまの方によみがえらせない限り、悪は消えないんです。…悪を粉々にして消そうとしている。悪人をどう責めて罰してみたところで、世の中には悪人が絶えないでしょう。これを神さまの方によみがえらせてはじめて悪というのが消えるわけです。
(小林:人間は同時に二つのことを思えない・抱えられないといいます。
例えば、楽しみながら悲しむことはできません。
大好きなことをやりながら怒ることもできません。
ですから、悩み事や困りごとを取り除きたいなら、
それと反対の感情・行動を持つのです。
感謝するとか良いことを思い浮かべるとか。
心理学でよく使うやり方です。)
強者が弱者を抑えるのではなく、バランスをとる
お互いがバランスをとることが循環につながって、
すべてこの世の中が成り立っている仕組みになっている。
神道でも仏教が入ってきたら、対立しないで共存してバランスを取ろうとする。
トラなどの強い動物は、自分のえさになる弱い動物を食べつくしてしまったら、
エサがなくなって自分も滅びる。
弱い動物もいてくれないと強い動物は生きていけない。
大きな花を咲かせる植物もあれば、小さな花を咲かせる植物もある。
どちらが上、下とかいうことではなくて、
それぞれの花が個性で花を咲かせているのであって、
それぞれがバランスをとって生きられるように、自然はなっている。
先進国・大国だけでは生きていけない。
発展途上国があってそれぞれ進化しようとする努力のバランスがあって人類は生きられる。
強い国が弱い国を抑えるのではなく、対立せずにバランスをとること。
日本人はこういう時にみんなの目を開かせるためにできてきた民族ではないのか。
それなのに肝心の日本人が外国の真似をしてしまった。
これを捨てなければならない。
本当にあらゆるものと共存して、民族独特の個性を示す。
お互いがバランスをとって生きるのが本当の世界。
(小林:多様性・違いがあることが大事です。
日本は外国追従ではなく、日本独自であるべきです。
個人も画一的教育ではなく、個性的であるべきです。)
教えることは知恵や歴史(経験値)
教育とは知識を教えることではない。
まず生きる知恵を教えることである。
知恵とは何か。
動物で言うと、食べ物の取り方、敵からの逃れ方。
若者では、こうなった時にはこうしなければならないという知恵がない。
自分では何にもできないで、上の人からこうやれ、ああやれといわれると、それだけはする。
しかし、それ以外のことが起きた場合、判断して行動することができない。
世の中をどう渡ったらいい、わからない。
昔の人はいろいろ経験している。
その歴史を知っていれば、昔の人はこの場合はこうしてやったんだなと知恵が出てくる。
それを見習って、自分もこうやって対処しようということになる。
歴史を断ってしまって、これを知らないから、今の日本人には知恵がない。
食事は与えられて食べるものだと思っているから、知恵がない。
我々が子供のころは、母親がまず食べて、ちょっとでも味がおかしいと
「これは腐っているから食べてはだめ。酸っぱいでしょう。腐ってるからですよ。」
食べていいものと悪いものを区別する知恵を伝えてくれた。
今はそれを教えていないから、母親から与えられたものは何でも食べてしまう。
いっぺんに食中毒になる。
アルコール消毒など抗菌ばかりで、ばい菌に触れる機会を作らないから、
細菌・ウイルスに対する抗体が子供にできない。
そのため、感染する人は、免疫力の落ちた老人と、抗体のできていない子供ばかり。
(小林:昔、おじいちゃん/おばあちゃんの知恵という言葉がありました。
生活の知恵だけでなく伝統や心のあり方も含んでおり、再評価が必要です。
インターネットで検索すると、色々出てきますが、
私が教わったのは次です。
●風邪には、はちみつ大根
●酢で掃除
●薪ストーブでの薪への火のつけ方
●新聞紙をタンスや押し入れに敷く(防カビ・防湿)
●嫌なら無理してやるな、逃げろ
●食べ物の味がおかしいと思ったら、食べるな
●草むらに入るな(いろんな虫に食われて病気になることも)
●早く寝ろ・ちゃんと休め(眠く疲れて起きていても何も生まない)
●家はきれいにしろ、ほこりを残すな
●物は少なくしろ(掃除しやすくなる)
●服は床に置くな(服からほこりを吸い込んでしまう)
●風通しを良くしろ)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。