実は、神社では怨霊・祟り神も祀っています!
そんな怖い~!なんで神社で祀っているの?
と思いますよね。
●天満宮~菅原道真公
●神田明神~平将門公
●白峯宮(香川)・白峯神宮(京都)~崇徳上皇
以上、日本三大怨霊といわれ、前二者が特に有名です。
怖いけれど強い味方になる話を書いていきます。
敬意をもって接した者に対する守護です。
恐れられる怨霊ですが、退治という考えはされません。
それどころか、神社を創建して丁重に祀ります。
というのは、
●丁重に祀ることで怒りを鎮めて祟らなくなる
●怨霊になるだけの力があるのなら、逆に守る力もスゴイ
⇒味方につけたら心強い
という考えがあるからです。
御霊(ごりょう)信仰といいます。
世界には、権力者(聖俗かかわらず)やルールに歯向かったものは許さない考えがあります。
●神・ゴッドに敵対した者は悪魔とする
●悪魔祓い・悪霊降伏(ごうぶく)
●自分たちと異なった信仰・考えだけでも、異教・異端として滅ぼす
●一族郎党皆殺し、魔女裁判で魔女と認定されれば火あぶり
●過ちを犯せば許されない、罪は帳消しにならない、永遠に残る
正義か悪は固定的で二元論を徹底するとこのような考えになりがちです。
御霊信仰そして神道の考えは、正義か悪かあいまいな一元論です。
怨霊でも手厚く祀ります。
噴火や洪水など災害を起こす自然の神も、祀ることで災害を鎮めてもらおうとします。
自然を力ずくで押さえつける・手なずける考えではありません。
自然や怨霊と折り合いをつけるのです。
祀って神様の怒りを鎮める・味方になってもらうために、
●米・塩・野菜魚介類・酒などを捧げる
●祝詞で神様をたたえる
●神楽(かぐら~音楽)や巫女の舞
●社殿・神社境内を毎日掃き清める
●神職はきれいな装束、参拝者も身だしなみをきちんと
●手水を使うなど身を清める
●礼儀
などで神様に接する・喜んでもらうのです。
三大怨霊が恐れられつつも尊敬されて祀られてきたかを、以下に書きます。
【菅原道真公】
菅原道真公は平安前期の学者・政治家でした。
政敵の藤原時平により讒言(ざんげん)され、醍醐天皇から太宰府に左遷されたのです。
困窮した生活の中でも皇室や日本の安泰を祈願して、太宰府で亡くなりました。
その後、時平が39歳という若さで病死、醍醐天皇の子供の皇太子と孫がつぎつぎに死亡。
朝廷の清涼殿という神聖な場所に落雷して多数の貴族が死亡。
ショックを受けた醍醐天皇は病になり、三か月後に崩御しました。
朝廷や人々もこれを道真公の祟りとして恐れます。
祟りを鎮めようと祀ったのが、北野天満宮や太宰府天満宮(道真公の墓所)の起源です。
道真公の冤罪で流罪になっても皇室を思う気持ち、正直誠実や不正を許さない姿勢から、至誠の神様。
冤罪が認められ、太政大臣まで上り詰めたことから、潔白や免罪の神様。
秀才の道真公の学問の神徳を慕って、全国に道真公を祀る神社が増えました。
【平将門公】
平安時代中期の下総国いまの茨城県坂東市付近を拠点とした武士。
父の死後、その兄弟たち(つまり将門公の叔父たち)がその領地を奪おうとしてきたので戦となりました。
その叔父たちは国司など官職を持っていたために、
朝廷から反逆しようとしているのではと危険人物と思われ始めます。
朝廷から派遣された国司が住民に重税をかけていることに対し、
将門公は国司たちと対立するなど、朝廷側と対立し始めます。
国司たちと対立していた者たちをかばったことも対立を激化させます。
巫女から神のお告げとして「新皇」を告げられると、関東を独立国家にしようと奮戦。
朝廷を戦をするも最後に敗死します。
将門公の首は京都に送られさらされますが、
日数がたっても腐らず目はらんらんと輝き「また戦するぞ!」とうめき声が…
ある夜その首が空を飛んで(!)関東に戻ってきたのですが、落ちた場所が
東京駅・皇居前の大手町、将門公首塚です。
将門公首塚があった場所にあった神社が神田明神です。
江戸城鬼門を守るために、徳川家康公によって今の場所に移されました。
江戸そして東京の守り神です。
ご祭神はもともと平将門公のみで朝廷に対抗する意図があったかもしれません。
東国・関東の人々を代弁して朝廷に対抗した将門公を関東の英雄として、
人々も捉えていたようです。
明治維新で江戸が東京と改称されて朝廷が移ってきたときに、
朝敵の平将門公を外して、祭神は大己貴命・少彦名命に代えられました。
戦後、江戸の人々の要望で将門公も戻されました。
そのため現在の神田明神の祭神は、
一.大己貴命
二.少彦名命
三.平将門公
となっているのです。
余談ですが…
平将門公を倒すために創建されたのが、千葉県成田市の成田山新勝寺です。
つまり将門公と成田山は対立関係にあります。
そのため、神田明神と成田山新勝寺の両方とも参拝するのはよくないです。
【崇徳上皇】
平安時代末期の天皇でした。
祖父が院政を始めた白河法皇、父が鳥羽法皇で、白河法皇の子供ではないかと噂されたようで、
父鳥羽法皇と仲が良くありませんでした。
鳥羽法皇から弟(近衛天皇)に天皇の位を譲るよう強制され、近衛天皇が亡くなった後
さらに弟の後白河天皇が即位して、崇徳上皇の愛息が即位できませんでした。
鳥羽法皇が崩御した際にも葬儀にも参列できないという仕打ち。
崇徳上皇が反逆しようとしているのではと疑われ邸宅を兵たちによりより制圧されます。
不満を募らせた崇徳上皇が起こしたのが保元の乱。
しかし敗北して崇徳上皇は讃岐國(香川県)に流罪になります。
天皇・上皇が流罪になるのは400年ぶり(前回は奈良時代の淳仁天皇)。
反省と戦死者の弔いで心を込めて写経して都に送るも、
後白河天皇からは「呪いをかけているのでは」と疑われ受け取り拒否。
(一説によれば血文字で写経したともいわれます…)
心を込めた写経が拒否されたことに激怒した崇徳上皇は舌をかみ切り、
その血で国を呪う言葉を記して亡くなったそうです。
崇徳上皇の死後、後白河天皇の近親者が相次いで亡くなり
延暦寺の僧兵による強訴。
平安京の大火。鹿ケ谷の陰謀で平家と対立してた後白河天皇一派が処罰。
武家の台頭で朝廷の権力は落ち鎌倉時代から江戸時代まで700年間、朝廷は政治の実権を奪われています。
朝廷が実権を取り戻した明治時代、
讃岐へ勅使を使わして崇徳上皇の御霊を京都へ帰還させて白峯神宮を創建します。
崇徳上皇が崩御して800年になる昭和39(1964)年には、昭和天皇は香川県坂出市の崇徳上皇陵で式年祭を行っています。
どれだけ恐れられているかがわかります。
史上最強の怨霊とされます。
怨霊としての知名度だけでなく、四国の守護神としてのエピソードもあります。
承久の乱で土佐に流罪となった土御門上皇がここに立ち寄って鎮魂のために琵琶を引いたところ
夢に崇徳上皇が現れて京都の家族の守護を約束しています。
土御門上皇の遺児の後嵯峨天皇が即位しています。
室町時代に細川頼之が四国の守護を任され崇徳上皇の菩提を弔ったところ、
四国の平定に成功。
崇徳上皇は朝廷に対しては厳しかったのですが、
自分に敬意を持って接してきたものに対しては守護を与えているのです。
このように怨霊として恐れられても、敬意をもって守り神とされています。
以上です。