【安岡人間学】『直弟子が語る 安岡正篤から学んだこと』下村澄

安岡正篤先生は、多くの人から人生の師とされる方で、私も大いに学んでおります。

『直弟子が語る 安岡正篤から学んだこと』下村澄 アーカイブス出版

から抜粋します。



その人の本性を知るには

「小信を忽(ゆるが)せにせず」

人間、大きいことは人に見られたいためにすることが多い。

人間の本性を見る場合、小さな約束事を確実に実行しているかを見た方がよくわかる。

簡単な「人物の見方」である。

成果など目に見えることではなく

「大樹深根(たいじゅしんこん)」

大木に育てたいと思い、肥料や水をやり、

目に見えるところを繁茂するように努めるのは素人だ。

「木の五衰(ごすい)」という言葉がある。

枯葉が茂ると風通しが悪くなって「懐の蒸れ」が起こり、根の「裾上がり」が起こり、

頭(梢:こずえ)から枯れる「末(うら)枯れ」が起こる。

梢が枯れると「末止まり(うらとまり)」つまり生長が止まる。

そのころからいろいろな害虫がつく「虫食い」が起こる。

大木を育てるには、植木屋に頼んで枝葉をバッサバッサと切ることだ。

そうすると根が張る。

枝葉を伸ばしては駄目で、幹を逞(たくま)しくし、根に帰ることが大事である。

目に見えるようせき止めに見えない容積が一致してこそ生長するのである。

人間も偉くなるほど、精神修養が大切だ。

(小林コメント)

枝葉にあたる、つきあいや習慣、イベントについて、

「これは本当に必要か?」「精神修養になるだけの価値があることか?」検討し、

それに当たらなければバッサリ切ることです。

釈迦も「くだらない人と付き合うぐらいなら孤独でいなさい」と説き、

安岡先生も「閑に耐えよ」(孤独・暇に耐えよ)と説きます。

DOよりBE

「深沈厚重(しんちんこうじゅう)なるは、是(こ)れ第一等の資質」

こういう落ち着いた人物が安岡先生で、

慈顔にあふれ、誰でも包み込むような温かさがあった。

酒席で見せる素晴らしい酒品。

その後ろ姿ににじむ風格。

何気なく口にされる言葉にこもる深い教え、それらが混然一体となって醸し出す雰囲気が、

そばにいるだけで人を感動させた。

人望の第一要素である「寛にして栗(りつ)」寛大だがしまりがあった。

周りに多くの政財界の人物を磁石のように吸い寄せ感化された。

「How to do good」(いかに善をなすか)ということよりも、

「How to be good」(いかに善であるか)ということのほうが大事であると言われた。

人間の第一義は、何をなすかということではなく、なんであるかということである。

論語の中に「性は相近し。習うことは相遠し」(陽貨)という言葉がある。

人間の天性というのは、そんなに違ったものではない。

その人の習慣は第二の天性である。

習慣を蒔けば、人格を刈り取る。

人格を蒔けば、運命を刈り取る。

類まれなる成功へのチケットだ。

習慣を軽んずるのは、人間の破滅である。

知能や技能はいくら有用・有意義でも、属性的なもので、

習慣は徳性と切り離すことのできないものである。

だから、知能も技能も徳性の側にある習慣によって結ばれなければ本物にはならない、

と安岡先生から学んだ。

立派な人間の条件

人物になるための条件として「徳を積む。」

一、人のために善を成す。

人がいいこと思うこと、人が嬉しく楽しい気持ちになること、

それをやるのである。

二、愛嬌(あいきょう)の心を養う。

人の心を和ませ、和らげることを心がけるのである。

三、人の美を成す。

人が際立つように、人が立派に見えるように行動するのである。

会社などで、部下の働きは自分の手柄にする、自分の過失は部下のせいにする。

そんな中間管理職がよくいるものである。

それとは逆のことをするのである。

そんなことをしても何の得にもならない、という人がいたら、

その人は利のみで動く小人、下品の輩である。

長い目でみれば、徳は必ず得に結びつく。

四、人に勧めて善を成さしめる。

自分だけが積徳をするのではなく、

人も積徳ができるように気を配るのである。

五、人の危急を救う。

人間には「人を救わずにはおかない遺伝子」が組み込まれているのである。

六、大利なることを興し建てる。

利のみを追い、利だけに走ると、ともすれば悪となり、小人や下品に堕することになるが、

善行を伴っていれば、利を得ることは善につながるのである。

たとえば、金で追い詰められている人を救うには、金を貸してやるか、

上げなければならないが、自分にそれだけの余裕がないとできないことである。

だから、利の蓄積も善行の重要な一つなのである。

しかも、ここでは、大利を興し、建てよ、といっている。

事業を起こして利益を上げ蓄積していくことは、善につながるのである。

七、財を捨てて施しをする。

これはむずかしい。私は仕事がら、財を成した人をたくさん知っている。

しかし、財を成したら成したで、さらにもっと多い財を目指して邁進する人はいても、

成した財を捨てて施しをするような人は、なかなかいない。

だが、それをしなくては、大利になることを興し建てたとしても、

それは善につながらないのである。

カーネギー(1835~1919)は、

「世界で最も儲け、世界で最もお金を使った」人として有名である。

その象徴が「カーネギーホール」である。

シュリーマン(1822~90)は、莫大な財産を築くと、事業を売り渡し、

財産のすべてをつぎ込んで「トロイの遺跡」を発掘した。

こうしたことも施しの一つである。

ところで、「財を捨てよ」といっても、スッカラカンになれ、というのではない。

それでは、誰一人バカらしくて事業家になんかならないであろう。

ただ、成した財を自分の贅沢のために消費するのではなく、それをもとにして、

社会に役立つこと、人々のためになることを行え、というのである。

松下幸之助さん、本田宗一郎さん、井深大さん、現代では京セラの稲森和夫さんなどが

いい手本である。

「世のため人のため」ということを考えているからこそ、

世界に誇れるあれだけ大きな仕事ができたわけであって、

彼らの名前が我々の心に快く響くのである。

儲けても、施しをまったく考えない人は、

まさに利のみで動く、小人にして下品な輩である。

八、正しい法を護持する。

自分の利のみで動いていると、法を犯してもさらに利を貪りたくなるような性向が

人間にはある。

それが善や徳からほど遠いものであることは言うまでもない。

九、自分より身分の高い、年齢の長じた人を敬重する。

これはあまりにも当たり前のことのようだが、

現在の若者が、はたして上司やお年寄りに対して敬意を払っているであろうか。

そのような社会は、善から離れ、徳から離れていくから、

人物を生み出すのがますます難しくなっていく。

十、ものの命を愛惜する。

ワンガリ・マータイ女史が「MOTTAINAI!」(もったいない)と言って

世界的に話題になった。

私は子供のころ、親から

「お米を育てるには、農家の人は八十八回も手間をかけているんですよ。

だから。米という字は八十八と書くんです。

農家の人のご苦労をおもったら、決して無駄なことをしてはいけませんよ」

とよく言われた。

ものを愛惜するのではなく、ものの命を愛惜するのである。

このことは、ものを単なるものとは見ない、ということである。

ものに籠っている人々の思い、そのものができてくる背景、

そこに醸し出される人々の喜びや悲しみ、、ういうものを感じ取るということである。

それができれば、無駄な消費がなくなるのは当然である。

人物たる者のものの見方の三原則

一、目先で見ずに、長い目で見よ

人間は何か現象が起こると、その現象だけを対象にして物事を判断しがちである。

しかし、それでは正確な判断はできないし、適切な対応は不可能である。

可能な限りの知識を基盤に情報を収集し、さらには想像力までも駆使して、

長期的な展望を持つ。

それも何かが起こってから長期的な展望を持つようにしても遅い。

常に長期的な視野を心がけておく。

そうすれば、何が起こっても、ロングレンジの中の一つの現象としてとらえることができ、

目先のことで右往左往したりせず、何事にも適切に対応していけるものである。

二、一面ではなく、ものの反面を見よ

何かが起こる。

人間の目に移ってくるのは、常に現象やものごとの一面だけである。

だが、それでは何が本質なのかをとらえることはできない。

ものごとというのは、決して一面的ではない、多面的である。

だから、意識して自分が見ている一面だけでなく、

自分の目には容易に見えない反面を見るように心掛けなければならない。

それが真実をとらえることになる。

このことは別の言い方をすれば、狭い主観だけにとらわれないで、

ものごとを別の立場から考えてみるようにする、ということを意味する。

自分の中に客観的な視点をもて、ということでもある。

これが、柔軟な思想や臨機応変の対応を可能にするのである。

三、枝葉末節を考えないで、根本で考えよ

たとえば木は、同じ種類のものであっても、枝葉はさまざまな伸び方、繁り方をする。

その土地の風土、またそのときそのときの気候によっても違ってくる。

だが、根は一つである。

枝葉の伸び方、繁り方でものごとをとらえ、考えても、正確な思考は成り立たない。

土地の中に隠されている根を常に見失わず、

その根について考えるようにしなければならない。

こういうものの見方をするのが人物であり、またこういうものの見方を常にすることによって

人物は養われる、と先生は説くのである。

(小林コメント)

●30年前、20代のころにコンビニでアルバイトしていた時の話です。

そこの店長はパソコン(ブラウン管の古い物)で前日の売れ行きを見て発注していました。

牛乳は仮に20本売れているとして、毎日20本注文です。

深夜に入荷して、午前中にはもう売り切れてしまい、

お昼過ぎ・夕方・夜に買いに来たお客さんにとっては、

毎日品切れの品ぞろえの悪い店と映ってしまいます。

店長には、買えないお客さんから増やしてほしいと言われている旨伝えましたが、

余ったら困るからと発注増加にはなりませんでした。

その結果、牛乳が欲しいお客さんは他店で牛乳とほかの商品も買い、

その店には立ち寄らなくなりました。

また店長は50代で緑茶が好きなのか、たくさん売れるからと多く発注していました。

たとえば一日50本売れるとして、つねに毎日60本注文します。

すると一日10本ずつ余るので、一か月だと300本在庫ができてしまいます。

バックヤードが緑茶だらけで、賞味期限が早い(つまり古い)のはどれか

探し整理するのが一苦労で、整理が追い付かず期限切れ間近のものが残っていたことも。

現場(倉庫)を見ずに数字だけで発注していたためです。

→(目先だけで長期的展望が欠けていた、数字という枝葉末節だけとらえていた)

●別の通販会社では発送部門をもともと10人で回していたのを、

人件費削減で6~7人に減らしました。

それでも業務が回っていたので経営陣はこの人数で大丈夫と判断していました。

しかし実際は、現場が必死に作業していたからで、

忙しいためにパートさんも辞めたら、また次の人を採用し、また辞めての繰り返し…

経営陣はパートさんが辞めるのは「根性がないからだ」と考えており、

他の可能性をまったく考えていませんでした。

人数を10まで増やしたり、業務量を減らすなどの対策を取らなかったのです。

→(一面だけで他の面を考えなかった)

●お客さんにきめ細かい対応をしようと、顧客管理部門では作業内容を細かくしました。

そのため、新人が研修で作業内容を習得するために多くの時間が必要となり、

途中で嫌になって辞める新人も出ました。

新人が定着しないため、従業員が増えず、ベテランばかりの人手不足です。

細かさのためミスも頻発し、細かい作業内容に対応しオペレータの負担軽減させようと、

システムも複雑化しました。

→(長い目で見ると細かい作業で業務が難しくなり、業務の大変さで新人従業員が定着せず、

枝葉末節ばかり目が行って会社の安泰につながっていません)

●ある宗教団体はある政党を支持しており、祖父が入信していたので私で三代目ですが、

かつて選挙活動を行っていました。

知り合いに投票をお願いする活動ですが、

集票が少ないと幹部からは「たるんでる」「信心が足りない」などと指導を受けるのです。

集会・会合に行っても選挙活動への気合を入れられるだけで楽しいものではありません。

何年も活動しましたが、次第に嫌気がさし、私以外にも多くの会員が辞めています。

→(獲得してくる票という枝葉末節にばかり目が行き、会員が嫌になって会をやめ、

政党に投票もしないという、根っこもダメにした)

顧客第一主義で、ないがしろにされた従業員が辞める会社も同様です。

●地域の自治会で理事(防災防犯担当)ですが、

訓練のイベント(消火・応急処置・炊出しなど)を毎年開催します。

会員(班長)さんたちはそれほど積極的に参加したいわけではありません。

「やることになっています」「一年間だけなので、地域のためだと思って参加してください」

では、やる気になる人はあまりいません。

イベント参加は枝葉末節だと思います。

防災意識を高めること(自分たちでできることは自分たちでやれるようになる)・

他の人たちと連携協力できるようにすること(近所の人同士助け合う関係を作る)

が根本ではないかと思っています。

そのため、その旨つまり

「いざという時は自衛隊・警察・消防もなかなか助けに来れないので、

自分たちで対処できるための練習です。

励ましあったり助け合ったりできる知り合い関係作りもできます。

1年間のうちこの機会しかないので、ご自身と家族のためになるので、

忙しいでしょうが時間作れませんか?」

という根本を突いた、イベント参加アピールをしています。

人生の達人になるための格言:六然

一、自処超然:自分自身については決して物にとらわれてはならぬ

二、処人藹然(あいぜん):人に接するときは相手を楽しませるように努め、心地よくさせること

三、有事斬然(ざんぜん):ことあるときはためらわず、さっさと活発にやる

四、無事澄然(ちょうぜん):ことなきときは澄んだ水のように静かな気持ちでいる

五、得意澹然(たんぜん):得意な時にはあっさりと淡々としている

六、失意泰然(たいぜん):失意の時は泰然自若とし慌てないでいる

冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え、

激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず、もって大事を成すべし

陰と陽の区別(人間学の立場からの)

「宇宙・人生の創造・変化、限りない営みをつきつめていくと、

最後は根本原理に行きつきます。

天地・自然の創造・変化というものは、窓の外の樹木を見てもわかりますが、

無限の可能性、想像力(クリエイティブ・パワー)を含蓄しておりまして、

その創造・変化を可能ならしめているのが生の活動力(エネルギー)であります。

それは何らかの形で外に発現すると同時に、四方に分派し発生して、進展してゆくのです。

このように文化・進展してゆく力を『陽』と言います。

一方において、別れるものを統一し、それを根源に含蓄しようとする働きがある。

その働きを『陰』と言います。」

『人物を治める』安岡正篤 致知出版社

「それでは陰と陽のどちらが本質的かということになりますと、

陰が根本で、陽は枝葉花実的であります。

陰だけでは発展ということがありません。

陽が活動し代表になって、それを陰が裏打ちし内に含んで、初めて両方が存在するのです。」

陰と陽のどちらが重要というのではない。

陰と陽の両者があって初めて物事は成立し、存在するのである。

このように、どちらも不可欠なのである。

だが物事の本質は陰にあるのである。

ついつい表面に出てくる陽に目が行きがちだが、

本質である陰の裏打ちがあって陽は表面に出ることができるのだ。

また、陰が含蓄したものも陽がなければ表現されることはない。

表現されない含蓄は無に等しい。

陰と陽は、このような関係にあるのである。」

「徳というものは、これは人間の本質的要素ですから、陰性のものであり、

それに対して才能や技能は属性的要素ですから、これは陽性であります。」

才能や技能を発揮すれば目立つ。

喝采を受けることにもなる。

しかし、それだけでは人間として不十分である。

裏打ちのない才能や技能は、一時的には目立って、もてはやされるかもしれないが、

剥げたメッキと同じで、遠からず破綻する。

徳という裏打ちがあって、その上に花咲く才能や技能が本物なのである。

また、そういう裏打ちのある才能や技能の持ち主が人物なのである。

陰と陽の話からわかってくることは、徳の現れ方はあくまで陰でなければならない、

ということである。

ひそかに善を行ってこそ、徳となるのである。

つまり「陰徳」が徳のあるべき姿なのである。

それを、自分はこういういいことをやっている、こんな素晴らしいことをやった、

と自分から言いふらすのは、徳の本質に背くものである。

いくらいいことをやっても、それを自分から言いふらし、誇りにするようでは、

せっかくの善行が台無しになってしまう。

徳を積むどころか、不徳の極みになるだけである。

他人は黙っているが、内心ではバカにされていることに気がつかない。

徳は、人知れず、ひそかに積むものである。

隠せば顕れる、というではないか。

人知れず積んだ徳は、その人の人格からにじみ出て、必ず世間に知れるものである。

秘すれば花、というではないか。

ひそかに積んだ徳は、その人に奥ゆかしい趣のある風格を添えて、

真の人物たらしめるのである。

陰徳:人に知られないようにする善行である。

人にいいことをしてあげたのに無視され、お礼の言葉もなかった場合、

腹が立つのが人情だと思う。

そうすると、恨みを潜在意識に植え付けることになり、

自分自身の心と体を破壊することになる。

こんな馬鹿げたことはない。

心と体は一体である。

共に健康にしなければ駄目だと、心身摂養法を教わった。

一、心に喜神をもつ

二、感謝

三、陰徳

(小林のコメント)

陰は女性、陽は男性と比喩されることが多いです。

これは、女性が子供を産み育てて家庭を守る、無駄使いしない、旦那を支えるという、

内側に力を集めて貯めるという面が陰。

男性の外で活動し食料・お金をもたらし、外敵から妻子を守る、

外側に向けて力を発揮する面が陽、だからです。

役割分担であり、両方必要なのです。

会社など組織でも言えることで、外側に向けて営業などで成果を上げる陽の面ばかり

追求して、社員同士の仲が悪い、成果の悪い人は叱責される、

他社員の成績が上がると相対的に自分の評価が下がるから、新人にもノウハウを教えない、

他社員の足を引っ張る、等、内側に力を貯めるという陰の面をないがしろにすると、

その組織は崩壊します。

他人の評価は、その人の思っていること、自分は変えられない

多くの人間の人生は、与えられた運命の範囲で、運命のままにある、というのが実態であろう。

「与えられた運命の先に自分の人生を構築していく。

それが人物というものであり、人物の条件である。」

「自分が今やるべきことを、きっちりとやっておく。

それで十分ではないか。

人はいろいろ言うだろう。

だが、それは自分のことではない。

人のことだ。

自分のことではなく、人のことで思いわずらっても、仕方がないではないか。

自分にできることは、今やるべきことをきっちりやっておくことだけだ。

あとは人のこと。

大切なのは自分だよ、自分。」

感動する人でありたい

感銘を受けた本として挙げるものの中に、

国木田独歩(1871~1908)の『牛肉と馬鈴薯』がある。

主人公の語る次のようなくだりである。

「僕は唯一つ不思議な願いを持っている。

恋愛でもない。

大科学者、大宗教家になることでもない。

理想社会の実現でもない。

結局それは、喫驚(きっきょう)したい、という願いだ。」

喫驚とは、びっくり、ということである。

「人間、びっくりしなくなったらおしまいだ」

と先生はよく言われていた。

びっくりするということは、好奇心を燃やしていることである。

好奇心は向上心に通じる、びっくりするのは、心の新鮮な躍動である。

発見があることである。

感動があることである。

「感激を失った民族は衰退する」と、いつも感激を求め、

びっくりすることの大切さを先生は説いておられた。

それが、人間であることの源泉だからである。

運命を創り出していく意気

人生は、確かに運命的なものである。

絶対的で必然的なものによって枠付けられている。

しかし、それは決して超えられない、どうにもならない枠ではない。

人生は、複雑な因果関係によって彩られている。

その因果関係が人生を形作っていくものだが、そこには法則性がある。

その法則をつかみ、つかんだ法則に自分の意思を働かせていけば、

自分の意思に沿うように運命を変えていくことができる。

いや、運命を変えていくのではない、創り出していくのだ。

先生は、ことあるごとに、繰り返しこのように述べられた。

立命とは、自由で奔放で柔軟性この上ない境地のことである。

このような境地を示すのが、「六中観(りくちゅうかん)」である。

一、死中有活:絶体絶命のピンチになっても、決してあきらめず活路を見出すべし

二、苦中有楽:苦しい中にあっても、楽しみを作って心の余裕を持つべし

三、忙中有閑:どんなに忙しくても、閑を作って楽しむ教養が大事である

四、壺(こ)中有天:世俗世界にあって、独自の世界を持つこと

五、意中有人:いつも尊敬できる人物を求め、それに私淑すべし

六、腹中有書:古今の有用な書を常に座右に置き、修養に努めるべし

常にこうありたいと願い、こうしようという希望を持ち続け、

クリエイティブに自己革新を続ける。

「立命」とはまさにそのことなのである。

お金ばかり心配していると

伝教大師最澄(767~822)に

「道心の中に衣食あり。衣食の中に道心なし」

という言葉がある。

道心とは道を求める心である。

志を立て、理想を追求していくことである。

つまり、自分自身が、今この世の中に生きていることを示し、自己を発揮することである。

そこにおのずと仕事というものが生まれてくる。

仕事は何でもいい。

自分に適したこと、自分を最大限に発揮できるようなものであればいい。

そのように生活していくならば、心配せずとも衣食(必要な経済力)なんてものは、

あとからついてくるというのである。

ところが衣食を中心に考えると、そうはいかない。

はじめのうちは、「まあ、食べていけりゃあいいか」なんて言っていたものが、

やっぱりもう少しうまいものが食べたい、ブランド品を着たい、車が欲しい、家を建てたい、

さらには社会的地位や名誉を高めたいということになっていく。

これではいつまでたっても生活に追いまくられ、仕事に支配されるばかりである。

道心なんてものはどこかへ飛んでしまっているわけで、ろくな習慣しかつかなくなる。

儲けばかりでなく必要なのは

論語の「利によりて行えば怨み多し」という言葉…「怨み多し」という言葉は、

ただ単に人さまから恨みを買うというだけでなく、

その結果、いろいろとトラブルを生じるという意味を含んでいる。

利益ばかり求めていると、必ずや利益を失うことになる。

そのようにできているのである。

バブル経済崩壊をはじめ、ミート事件やメーカーが賞味期限をごまかしたりするなど、

これまでどれだけそういう例を見てきたことか。

何が正しいのかを考え、それを求める。

常におごることなく内省し、至らないところがあれば恥かしこまり、改める。

自分たちの利益ばかりでなく、公共全体の利益に心を及ぼしていく。

そうした義の心、倫理観を持たなければ、平和に繫栄することはない。

進歩というものがない。

「君子は義にさとり、小人は利にさとる」「義は利の本なり、利は義の和なり」という言葉

物には恵まれても、心豊かな社会になったかというと、

むしろ以前よりも貧しい状況が散見される。

なぜ、こうなってしまったかというと、日本が、

利益第一主義、利益追求ばかり考えて来たからである。

個人にとっても、企業にとっても、社会にとっても、真の意味の利益をもたらさない。

ただ、儲けがいくらかあっただけに過ぎない。

やはり企業というものは、大きな組織力をもてば持つほど、何が人のため、社会のために

役立つか、何が正しいかということを常に考え活動していかないと疲れてくる。

なぜ疲れるかというと、儲けのことばかりで、世の中の役に立っているかどうか

わからないような仕事をしていても面白くないからである。

やはり人間というものは、使命感を持って仕事をしていると楽しいし、

活力が出てくるのである。

これが商売の本道というものであろう。

(小林コメント)

儲け・お金ばかりでは、きつくなってきます。

●お客さんから喜ばれる・感謝される

●世のため・社会のため・子孫のために役立てている

●自分がスキルアップ・成長できる

●従業員同士、楽しく仕事できる

などほかの価値が必要です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする