こんにちは、古神道の研究家ヒデです。
令和元年(2019年)11月14日から15日にかけて
今上天皇陛下の大嘗祭が執り行われました。
そして11月20日から12月8日まで大嘗祭に使われた大嘗宮が一般公開され、
私も見学ツアーを2回開催して参加者の皆様に喜んでいただけました。
実際に見学する前に1時間レクチャーを行いましたが、
今回はそのレクチャーの概要と
天皇陛下即位の際に行われる大嘗祭および
毎年行われる新嘗祭について解説します。
この記事の目次
1.即位の儀式
即位には大きく分けて、以下の3つの大きな儀式があります。
①剣璽等承継の儀
かつては践祚(せんそ)といいました。
三種の神器のうち、
剣(天叢雲剣:あめのむらくものつるぎ・草薙剣:くさなぎのつるぎ)と
八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を
承継する儀式です。
鏡(八咫鏡:やたのかがみ)は皇居の宮中三殿、賢所にあり動きません。
この儀式終了後、天皇陛下が承継の儀が終わった旨報告されます(賢所奉告の儀)。
朝廷内・皇族内での儀式の性格が強いです。
②即位礼正殿の儀
陛下が、日本国の天皇の地位につかれた(即位)を
国の内外に知らしめる儀式です。
国家的性格の強い儀式です。
昭和天皇までは京都御所の紫宸殿(ししんでん)で行われていたので、
即位礼紫宸殿(ししんでん)の儀といいました。
下は國學院大學博物館所蔵の
幕末、嘉永の大嘗祭の模様です。
奥の大きな建物が、京都御所の紫宸殿で、
朝廷の政治や儀式を行う場所でした。
その前庭で大嘗祭が行われます。
③大嘗祭
祭祀の性格が強い儀式です、以下説明します。
大嘗祭と新嘗祭の共通点、相違点を書きます。
2.大嘗祭・新嘗祭ってなに?
①おおまかな内容
読み方ですが、歴史上
大嘗祭は、だいじょうさい/おおにえのまつり/おおなめまつり、
新嘗祭は、にいなめさい/にいなめまつり/しんじょうさい、
等と読まれました。
現代はそれぞれ、だいじょうさい・にいなめさい、と読みます。
大嘗祭・新嘗祭とも
その年に収穫された稲(米)を神饌として
天皇陛下が天照大御神に捧げ豊穣を神恩に感謝され、
さらに陛下自らも召し上がる祭祀です。
大嘗祭では
内閣総理大臣と農水大臣、衆参両院の議長、最高裁長官が
国民代表の形で参列します。
新嘗祭は非常に古くから行われてきたようで、
縄文時代からともいわれています。
大嘗祭は、
「天皇即位後初めて行う新嘗祭を大嘗祭という」
「大嘗祭は、大規模な新嘗祭」
などと神道の事典に書かれています。
かつて即位(剣璽等承継の儀)を践祚(せんそ)と言ったことから、
践祚大嘗祭とも呼ばれました。
飛鳥時代、天武天皇・持統天皇の頃から行われるようになりました。
なお新嘗祭は、宮中だけでなく全国の神社でも執り行われます。
春に行われる祈年祭(春祭り)は五穀豊穣・産業発展を祈る祭りで、
稲が豊かに実ることを祈ります。
これに対応したのが
秋に行われる新嘗祭(秋祭り)です。
収穫祭で、新穀を神様にお供えし神恩に感謝して
平和と繁栄を祈ります。
②夜中に行う
ニュースをご覧になると、2回行われていることに気づくでしょう。
しかも夜中の祭典です。
「夕(よい)の儀」(午後6時から8時)と
「暁(あかつき)の儀」(午後11時から午前1時)と、
同様の儀式が2回行われます。
なぜ2回行うのでしょう?
結論を言うと、神様に夕食を捧げてお休みいただき、
翌朝朝食を捧げるからです。
この意味を歴史から探ります。
③冬至に行われていた祭祀
遥か昔にはこの祭祀は冬至に行われていたようです。
現在も「一陽来復」のお守りが頒布されているように、
陽が最も短くなり太陽のパワーが最も弱くなるので、
太陽の復活を願う祭祀が執り行われる日でした。
この日に捧げものをして太陽の復活を祈り、
捧げたものをいただく(飲食する)ことで、
復活した太陽のパワーをいただくということです。
神人共食といいますが、
神の召し上がったものを人が飲み食いすることで
神のパワーを取り入れるという考え方があります。
祈祷が終わった後で捧げもの(お神酒など)を
参拝者が飲むという直会(なおらい)もそうです。
大嘗祭・新嘗祭も神人共食です。
かつて新嘗祭そして大嘗祭は
太陽のパワーが最も弱くなったと考えられる、
冬至の午後10時ころ(亥の刻)に行われていました。
十二支の最後の刻です。
神様にはお休みいただき日をまたいで
(翌日からは太陽のパワーが復活します)
翌朝、寅の刻(日の出の直前~午前4時ごろ)に神様に捧げ
復活した太陽のパワーがそのお供え物に加わる、
それをいただくことで祭主(天皇陛下)が
復活したパワーをいただくという考えです。
なお現在の祭祀の時刻は、午後6時と午前1時ころとなっています。
日没した時点で太陽のパワーが最も弱くなっている、
冬至の日から日付が変わった時点で(午前1時)パワーが復活している、
と解釈しているのでしょうか。
またお祀りする神様も今は天照大御神と天神地祇となっていますが、
本来は太陽の神である天照大御神のみのようです。
④なぜ卯の日に行うのか?
大嘗祭などは卯の日に行います。
なぜ卯の日なのか?
下図は時刻にも方角にも使われます。
青字(数字)が時刻、赤字が方角です。
時刻では、卯の刻は午前6時ころで日の出です。
方角では、卯の方角は東つまり日の出です。
つまり卯は物事の始まりを表します。
卯の日は、
新しい時代・新しい一年には縁起の良い日なのです。
これが卯の日を選ぶ理由です。
別の理由も紹介します。
それは五行説です。
11月は子(ね)の月です。
子は五行説(木火土金水)で水を表します。
卯は同じく五行説で木を表します。
木は土から水を吸い上げてすくすく成長していくので、
相性が良い(相生:そうしょう)とされます。
逆に相性が悪いのを相剋(そうこく)と言います。
月と日の相性が良いため、11月卯の日を選びます。
五行説や相生・相剋は話が込み入ってくるので、
この辺りでとどめておきます。
機会があれば解説したいと思います。
⑤冬至に行っていたのが卯の日になった
飛鳥時代にこの新しい考え方
「卯の日に行う」を取り入れました。
持統天皇の時代に
冬至の日がちょうど卯の日に当たったことから、
以後旧暦11月の第二の卯の日に
新嘗祭が執り行われるようになります。
明治時代初めまで使われていた旧暦(太陰太陽暦)は
現在の太陽暦(グレゴリウス暦)より約1か月遅れます。
冬至は太陽暦では12月22、23日前後ですが、
旧暦では11月になります。
また干支は12ありますが1か月は29ないし30日なので、
卯の日は2回または3回あります。
2番目の卯の日に新嘗祭または大嘗祭が行われます。
卯の日が2回ある時は下卯、3回ある時は中卯といいます。
飛鳥時代まで太陽のパワー回復として冬至に行っていた祭祀です。
それを冬至ではなく卯の日に固定したのですが、
卯の日というまじないには効果があると信じられたので、
固定したのではないかと思います。
なお第一の卯の日は相嘗祭(あいなめまつり)といい、
天神地祇に対する祭祀が行われます。
⑥11月23日はこうして新嘗祭の日になった
飛鳥時代以降11月の2回目の卯の日に行われるようになりましたが、
明治6年から西洋にならって暦を太陽暦に切り替えました。
そのときに今まで新嘗祭は11月に行っていたのでそのまま11月にし、
ちょうど明治6年11月23日が卯の日だったので、
以後11月23日を新嘗祭の日として固定します。
西洋などは、記念日・フェスティバルを
十二支ではなく日にちで決めているので、
(例えば、クリスマス、独立記念日、ハロウィーン、など)
同じようにしたのでしょう。
戦後、GHQからの指令で新嘗祭の日が勤労感謝の日と変えられました。
令和元年で大嘗祭を執り行ったのは11月14日(木)ですが、
これは卯の日です。
3.大嘗祭と新嘗祭の違い
天皇即位時に行う一度限りの新嘗祭です。
以下の点で新嘗祭と異なります。
①大嘗祭はその一代一度限り
大嘗宮はその天皇は一度限りで建てられ、大嘗祭が終わると取り壊されます。
ただし建材は再利用されます。
これに対し新嘗祭は、常設の神嘉殿で毎年行われます。
画像で下側の濃い色の屋根の建物のうち、左上の大きな建物が神嘉殿です。
なお平安時代の大嘗宮は京都御所・紫宸殿の前庭に建てます。
この記事の前でも書きましたがもう一度画像もアップします。
政治を行う場所のため長期間場所を使うのは支障が出るためなのか、
大嘗祭が行われる5日前から始めて3日間で建てたそうです。
突貫工事のため質素で、地面にそのまま柱を立てた掘立小屋。
床もないので土の上にゴザを敷いて、
天皇陛下は祭祀を執り行われたようです。
②神饌の米が収穫される場所は全国の民間田
大嘗祭では、悠紀(ゆき)国(東日本)・主基(すき)国(西日本)が亀卜(きぼく)という占いで定められます。
それぞれの国の民間の田から、祭祀で捧げられる稲・米が収穫され、
これが大嘗宮に運ばれます。
なお、
悠紀とは、「ゆ」は斎庭などというように神聖ななどという意味、
「き」は氣や基礎などの「き」で
全体として選ばれた優れた場所のような意味合いです。
主基とは、「つぎ」がなまったと言われており、
悠紀の次に祭祀を行うという意味合いです。
新嘗祭では、朝廷・皇室の田で収穫された稲・米が捧げられます。
③大嘗祭は国民が参加して祝う
大嘗祭では、平安時代の記録では、
悠紀・主基の国の人々が京に来て、祇園祭のような祭の行列を行ったとのこと。
荷車に縁起物を載せ、山のような出し物で都の中を練り歩いたそうです。
ここから山車(やま・だし)・山鉾という名が生まれたとの説があります。
つまり、
大嘗祭は国民が即位を祝う祭で
新嘗祭は、朝廷・官人が行う祭、という位置づけでした。
4.大嘗祭の歴史・流れ
天武天皇・持統天皇から始まりました。
応仁の乱と戦国の世で日本中が荒れ果てて、悠紀・主基から神饌を献上できないなどにより、
200年間行われませんでした。
しかし徳川幕府の支援により江戸時代中期に復活します。
明治以降は国家の威信をかけた儀式として、
平安時代の床もない大嘗宮とは異なり立派な建物になります。
昭和天皇までは京都御所で大嘗祭が執り行われてきましたが、
平成からは東京・皇居東御苑で執り行われ、
令和で2回目になります。
以上のように中世に200年間の中断はあったものの、
1300年の歴史があります。
5.大嘗祭・新嘗祭で行うこと
天皇陛下は下の写真(平成二年の時~宮内庁より)、
一番上の「廻立殿(かいりゅうでん)」で身を清めて
最も清浄と言われる白い装束に身を包まれて、
悠紀殿(あるいは主基殿)へ向かわれます。
悠紀殿・主基殿で何を行っているか、
秘儀であるため、詳細は公開されておりません。
ただし学者の先生方が「こうなっているのではないか」と
想像したことが伝えられているので、それを書きます。
内部は次のように、
天照大御神の鎮座されている伊勢神宮の方角へ向けて
神坐と寝床がしつらえられているそうです。
出典は以下の通りです。
天皇陛下が収穫された米と粟(あわ)、
炊いて小さなおにぎり状にしたものですが、これを小さな木の葉の皿にとって
神様におすすめします。
粟は、米が不作の時の非常用の食糧という意味合いで、
新嘗祭では捧げません。
その後陛下は退出し、次に陛下が来られるまで神様は寝床で休まれるとのことです。
今から90年前の昭和の大嘗祭の時は、
陛下が寝床にくるまって神様と一体になり、
寝床から出てきたときに完全な天皇になられる、
という説もありました。
現在はそのように考えられていないようです。
宮内庁職員でさえ中をうかがうことができなく、
文字通り秘密の儀式です。
この記事を書くにあたり、以下の文献を参照しました。
『企画展 大嘗祭』國學院大學博物館
『大嘗祭』真弓常忠 ちくま学芸文庫
『天皇と国民をつなぐ大嘗祭』高森明勅 展転社
『神社のいろは』神社検定公式テキスト 監修神社本庁 扶桑社
最後までお読みいただき、ありがとうございました。