日本は「言葉」ではなく「型」の文化~神職も職人も教えない~「見て覚えろ」という

こんにちは、古神道研究家のヒデです。

日本文化には、守破離という言葉があります。

師匠から学んで(守)

それでいいのかと悩み、違うのではないかと批判し(破)

違うやり方・自分に合った手法を見つける(離)

というのです。

芸事も、まず弟子入りして型を習得して

その後に型から出るという過程を取ります。

これは、まず個人の恣意・ひとりよがりを排除して、

伝統と型に沿うことで、何百年も先人たちが「これが良い」というやり方を

修練してそれに従うことによって何百年もの蓄積を身に付けます。

その上で各人の個性によって上達していけばよい、のです。

練習とは言わず、稽古と言います。

「稽古」とは古(いにしへ)を稽(かむがへ)ることです。

「照今」(今に照らす)とあわせて「稽古照今」という熟語としても使用されます。

先人のつくった理想的な形に近づように修練することです。

孔子も『論語』の中で、

「学びて思わざれば罔(くら)し。

思うて学ばざればすなわち殆(あやう)し。」と。

「学んでもよく考えないと、自分のものにならない。

言葉を知っているだけになる。

考えてばかりで先人の教えを学ばないと、

独りよがりで危ないよ」

と言っています。

没我帰一といいますが、我を忘れて、

自分以外と合致しよう・溶け込もうという態度です。

これが現れているのが、日本家屋と庭園です。

庭園も一本の木、一個の石に大自然を映し出します。

木や石も、大自然と一体させようというのです。

建物も庭園そして自然と一体になろうとしています。

茶道は日本の思想や美術をまとめたものだ、と表現されます。

外面的には、

茶室(木造・畳敷き・縁側)、庭園(木・苔・石・つくばい)、

着物、掛け軸、生け花、茶碗(陶器)、お盆(漆塗り)など。

内面的には、

相手を気遣う振動・音を立てない動作、

三畳四畳という狭い茶室を子宮に見立ててリフレッシュして外に出てくること、

その茶室で巡り合えたご縁のある人とひざを突き合わせて一期一会を楽しむこと、

狭い中で主客も上下も差別なく平等の和をつくりだすこと、

があります。

日本文化はわびさびを大事にします。

わびさびは、枯れる・滅びる・死です。

ところで森は、生と死が一緒の空間です。

新緑の森・草むらの下には、昨年の枯れ葉が埋まっています。

死んだキツネやネズミ、虫なども朽ちて腐っています。

枯れた・死んだものの身体は、生きるものの栄養となります。

枯れる・死ぬは、生きるものを支えています。

悲壮感は全くありません。

精一杯生きて死ぬ、そして後輩に譲る、これがわびさびの美学です。

わびさびを尊ぶことを通じて、我を忘れて自然・摂理と一体になろうというのです。

お読みいただき、ありがとうございました。