西洋庭園は秩序立てた幾何学的なのに、日本庭園はなぜ自然に似せているのか

こんにちは、古神道研究家のヒデです。

日本文化への古神道の影響を、自然に対する考え方の側面から書きます。

日本文化は自然と共存・共生する発想。

自然の中に偉大な力を感じて感謝しつつ、ともに生きるという文化です。

自然の恵みを生かし、自然に身をゆだねる、そんな考えです。

人工的なものであっても自然に似せて作ります。

たとえば、

日本庭園はごつごつした岩を置き、自然のような池を作ります。

人工的な感じがしません!

林も自然のままの山林のようです。

部屋の中から山の風景を眺めているかのよう。

ヨーロッパの庭園は秩序立てます。

きちっと並べて草花を種類ごとに並べ、

それぞれの樹木も同じ大きさ・形になるように

カットします。

そろってきれいですが、不自然ですね~




西洋では、自然は物質的資源にすぎないと考えているようです。

人間が加工して利用・活用します。

「意図して作り上げていく」文化です。

自然にはない形を作り出します。

これに対し日本は

自然が手本で、その状態に似せていきます。

「自然になっていく」文化です。

盆栽も木の美しさを小さな空間に表現します。

土色の鉢や花瓶に花をいけたりします。

土・岩から花が生えているかのようです。

日本文化は自然に対する畏敬の念があります。

西洋だと明らかに人工的な形・色の整った花瓶に花をいけます。

自然を切り取って支配下に置いているかのようです。

人間に都合が良いように、自然を加工していく、そのような態度です。

これは聖書の影響が強いからでしょう。

聖書では、ゴッドが自然を作った~

ゴッドに似せて作った人間は特別な存在なので、

自然を支配することができる~

だから自然を思い通りにしようとしているのでは。

日本では、古事記・日本書紀の神話の中では、

最初から自然はあったとされます。

誰かが作ったのではなく、もともとあるもの。

そこから神々が生まれて人間も分かれてきた。

母なる自然からは恵みもたくさんあります。

一方では大雨や火山噴火や日照りなど、

災害という怖い父の側面もあります。

恐れつつ感謝し親しむ…このような自然観が生まれたのです。

自然から神々が生まれて、さらに私たち人間が分かれてきた…

そのような神道の考え方では、

自然と人間は別々のものではないとなります。

一体である・つながっています。

自然と調和した生き方をすれば、

ありのままで本来の素質や才能能力を発揮できるし、

自然の英知・力を取り入れ活用することもできるのです。

自然を支配することも、コントロールすることも、利用活用することも、

必要ない!のです。

そんな考えです。

自然と一体になる・自然にゆだねる・あくせくしない…

一見すると

「何もしようとしない」「頑張らない」「受動的・消極的でもいい」

と思われがちですが、

それが大いなる力を発揮できる、理想的なやり方だというのです。

また

「信じようが信じまいが、自然そして神々とつながっているから、

ゆだねればその力を使えるのだ」

のです。

これに対し聖書の世界では自然と人間は別々に作られ、

別々で対になっています。

アダムとイブの物語で人間はゴッドとも別れてしまいました。

原罪を背負って、寿命が限られて、労働しなければならない…

非力な存在とされます。

救済されなければ、人間はどうしようもない…

そんな考えだと

「ゴッドとつながるために努力しなければならない」

「ゴッドに振り向いてもらうような加工

(例えば幾何学模様の庭園、秩序立てた植物の配置、石造りの大聖堂)」

「能動的・積極的であること」

「ゴッドを信じなければならない」

となります。

西洋は意識・意図・意志・能動性が強い文化となります。

これに対し

日本は自然・ゆだねる・流れに任せる・受動性が強くなります。

どちらが良い悪いではないです。

西洋的な「頑張る」姿勢で疲れている・成果が出なくなっているのなら

日本的な自然・ゆだねる・流れに任せるのやり方にしてみてはどうでしょうか。




シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする