こんにちは、古神道研究家のヒデです。
神道の考え方をわかりやすく伝えます。
この記事の目次
1.一つから派生
古事記の神話は天之御中主(アメノミナカヌシ)大神から始まります。
この神から枝分かれして神々が生まれ、
イザナギ・イザナミの神、天照大神、スサノヲ神、
~ 山の神、海の神、水の神、木の神、火の神、~などが生まれました。
人も自然も、元をたどれば同じ一点(天之御中主大神)に行きつきます。
これと似たのが生命体の細胞です。
受精卵は細胞一つ、ここからすべての細胞が枝分かれ・派生しています。
骨・歯・爪・髪・目・鼓膜・心臓・肝臓・胃・筋肉・皮膚…
骨や歯のような硬いもの、逆に柔らかく弾力のある粘膜・鼓膜・皮膚は、
実は一つの細胞から派生しているのです!
受精卵には骨になる遺伝子も粘膜になる遺伝子もありました。
細胞分裂してその置かれた状況で、
ある細胞は硬い骨になり、ある細胞は粘膜になったのです!
『華厳経』に一即多・多即一という思想があります。
「一つの中に多くがあり、多くであっても一つなのだ」
というのです。
一個の受精卵の中に、
髪の毛も骨も筋肉も目のレンズも皆入っています。
逆に髪の毛なども元をたどれば受精卵という一点に行きつきます。
すべてが協力し合って一人の人体となる…
一即多・多即一に通じます。
いろいろな信仰・思想もつながっているものです。
2.自然と人のつながり!
人と自然はつながっている、全くの別物ではないのです、ただ役割が違うだけ。
山には木が生えてそれにより水を蓄えて、少しずつ湧水・川として水を流す役割
海は魚や貝、海鳥などいろいろな生物をはぐくむ役割、などなど
それがわかっていた昔の日本人は自然を大事にしてきたのです。
同じように、人もそれぞれ役割があります。
山の神様にお願いして木を切らせていただくのです。
その跡には植林して、緑の多い山になるようにします。
これに対して古代エジプトやメソポタミア、黄河文明など、昔は緑豊富だったようです。
しかし植林しないためはげ山になり、荒涼とした砂漠になってしまいました。
おかげで水が得られず、やっとのことで作った畑には風に飛ばされた砂が降り積もります。
木や水を大事にする、もったいないの精神。
山を征服したり、自然を思いのままに従えよう、等と考えません。
山の神様のもとに登拝し、 森の神様に伐採のお願いをして
木を伐採したら若い苗木を植えます。
また地鎮祭 があります。
所有する土地であっても勝手に建物を立てないのです。
その土地の神様に来ていただいて、供物やお酒や祝詞でお願いをします。
これが地鎮祭です。
それから建物を建てるのです。
3.人同士のつながり
国津神の大国主命を大事にして、日本一大きな建物(出雲大社)を建てました。
大林組の張仁誠氏の再現画像です。
平安時代に言われた「雲太、和二、京三」という言葉があります。
出雲大社が最も大きく、次いで大和の東大寺大仏殿、三番目に京の大極殿。
同世代の人とは、もしかするとご先祖さんを同じくするかもしれないのです。
知らない人であっても血のつながりがあるかもしれない…
自分とまったく関係ないとは言い切れない…
我々は縦(神々・先祖)・横(他の人々)とつながっています。
神代の神々から枝分かれしてきた我々、だから
人間同士もみな兄弟、みんなつながっているのです。
私たちは助け合ったり・お酌しあったりします。
海外ではお酌するのはウェイター・ウェイトレスの仕事だそうです。
お互い様だから、助け合おう、譲り合おう~
そんな心が日本には残っています。
戦国時代にキリスト教の宣教師が日本で布教活動をしました。
その時のやり取りが伝わっています。
宣教師「隣人を愛しなさい」
庶民「?」
宣教師「隣人の宗教が違っても争わず、隣人が困っていれば助けることです。」
庶民「そんなの、当たり前じゃ。わしらは念仏で隣が禅宗でも仲良くやってる。
味噌が無くなれば『わしのを使ってくれ、お互いさまじゃ』
『困ったことがあれば相談に乗るぞ』と普段からやってる」
別の話ですが、
宣教師「ゼウス様を信じれば、天国に行けます」
庶民「死んだ父ちゃん・母ちゃん・爺ちゃん・婆ちゃんはどうなる?」
宣教師「信じていないので天国には行けません」
庶民「おいらだけ天国に行って、
父ちゃんたちは地獄の苦しみを味わうのは父ちゃんたちにすまない。
おいらも父ちゃんたちと一緒の地獄でいい」
値切りすぎないで、売主も買主も得するように、妥当な金額で決着(両得)します。
外国では買い物をするときに値切って値切りまくるのが常です。
その外国では日本人は評判が良いそうです。
それは程々のところで値切るのをやめて、売り手も儲かるようにするからです。
相手のことを配慮するという心があるのです。
4.感謝
1億の精子から1個だけが卵子に到達・受精して、私たちが生まれます。
他の1億の精子に勝ったから、生まれたのであり、生まれながらの勝者と言えます。
別の言い方をすると、生まれてきたかった他の人たちを押しのけてここにいるのです。
1億分の1というチャンスを獲得したことに感謝。
それと同時に生まれてきたかった人たちの分も生きるつとめがあります。
私たちは他の生き物の命をもらわないと生きられないのです。
稲・小麦・卵・牛豚鶏・魚貝・野菜果物…
それらの命をもとに私たちの身体は出来上がっています。
申し訳ない・生かされている・ありがたい、という思いが湧き上がってきませんか?
この思いが表れているのが、次の食事をするときの和歌です。
食べる前には
「たなつもの 百(もも)の木草も 天照らす 日の大神の 恵み得てこそ」
それから「いただきます」。
食べた後には
「朝宵(あさよい)に もの食うごとに 豊受の 神の恵みを 思え世の人」
そして「ごちそうさまでした」。
天照大御神(伊勢神宮内宮)と豊受大神(伊勢神宮外宮)の名前が入っています。
「いただきます」「ごちそうさまでした」は自然・神に対する感謝です。
「お金を払っているから」「こっちは客だから」言わなくていい、
と勘違いしている人がいます。
料理を作ってくれた人・農家や漁師などに対する感謝もありますが、
もともとは自然・神に対する感謝なのです。
茶道では茶碗を回してから飲みます。
これにも由来があります。
茶碗には正面があるのですが、飲みやすい箇所です。
亭主(ホスト)は正面が向くよう客(ゲスト)に茶碗を置きます。
客は「正面から飲むなんて、恐れ多い」と茶碗を回して正面でないところから茶を飲むのです。
日本料理では、箸は横に置きます。
西洋料理では右と左に縦に置きます。
中華料理も本場中国では縦に置きます。
なぜ日本では横なのでしょう?
実は箸は結界を意味します。
料理は山の幸・海の幸というように、自然・神からのいただきもの。
神の領域なのです。
こちら側人間との境界線が箸というわけです。
神様からのいただき物である食べ物に対する作法が、この考えから出てきます。
●食べ物に箸を突き刺すこと⇒突き刺すのは失礼
●お椀の中で箸を洗うこと⇒いただき物を汚している
●茶碗を持たないで食べること⇒大事に扱っていない
など。
食べ残してはならないのも、いただき物を大事にするからです。
余談ですが、西洋料理のナイフとフォークは狩猟時代の名残です。
左手で獲物を抑え、力の入る右手で石器の包丁で肉を切り取って食べていた…
左手を食器にしたのがフォークで、右にナイフを置くようになったのです。
自然・神からすべてのことを与えられています。
生きていくだけのお金・住む場所・食事・息をする空気・職業…
これだけのことをいただいて、ありがたい、と感謝するのが神道です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。