こんにちは、古神道と風水の研究家ヒデです。
生け花と「生かす」「活かす」について書きます。
この記事の目次
1.見事に切ること
伝統芸能に、生け花・華道があります。
花を「いける」と表現しますが、この言葉を使うのは日本だけです。
英語ではアレンジメント、
つまりきれいに「整える」のです。
「いける」とは、「生かす」「活かす」ということです。
どうしたらその花を引き立たせるか・個性を見出すか。
アレンジメントは整理なので、
周りにそろわせてしまう・全体の一部にしてしまいます。
つまり個性を十分引き出せていないのです。
今日いけたこの花は、明日には姿が変わっています。
全然違った生き方が始まります。
どんどん変化させていいのです。
昔の日本人は、みずみずしさを卒業して、
枯れた花やしぼんだ木の実にさえも、
美を感じていたのです。
死でさえも美で捉えます。
この世での役割・体験を終了して、神の世界・霊の世界に移る…
潔く死ぬのは美しいが、生にしがみつくのは見苦しい、…など。
生け花の師匠と弟子の会話です。
「この花のどこを切ったらいいんでしょうか」
「あなたが切りたくないと思ったら、切らなくていい。
だけど切るんだったら、躊躇なくズバッと花を殺しなさい。」
…
花は殺して初めて生かされるというのです。
見事に殺さないと、いい花をいけることはできない…
花を斬られたと思わせない形で斬って、
血の一滴も残さないで「お見事」と言わせなければならない…
深い世界です。
2.自然から得られる、考える頭
自然は、人間に考えることを強います。
枝打ち(木の下枝を切り落とすこと)でも、
どの枝を切り落として、残すのはどの枝か、
何十年後にはこの木・この森はどんな姿になっているか、
考える頭ができます。
ところが教師や上司の与えたものを行うことになれてしまうと、
自分の頭で考えない習慣ができてしまいます。
生け花を習いにくる子に、それぞれ勝手にいけなさいと言っても、
一本たりとも入れられなかったり、器を自分で選ぶこともできなかったり。
3.自然は不平等、平等は不自然
戦後の教育は、平均みたいな子ばかり育ててきました。
苦手科目があると、
「得意科目が点数良くてもダメだ、苦手を克服しなさい」
と指導されます。
得意科目はそっちのけで、苦手克服に時間も労力も費やす。
その結果、苦手科目は多少成績アップしたかもしれませんが、
得意科目は突出することなく、そこそこになります。
苦手克服にそそぐ時間・労力を得意科目にそそいでいたら、
得意科目はもっと凄いことになっていたかもしれないのに。
残念なことです。
「すべてが平等でなければならない」
ということ自体間違っていると思います。
学校では、
バレンタインのチョコレートを学校に持ってきてはならない、
ことになっているそうです。
あの子はもらったのに、この子はもらっていない、
これは差別・不平等だ、だからと。
運動会も一等・二等がない、のも同じ理由です。
…
果たしてこれで良いのでしょうか。
勉強ができなくても走るのが速い子が、
表舞台に立てる・人気者になれる機会を奪っている気がします。
私は運動音痴で運動会かけっこでは、ビリの常連でしたが(笑)
かけっこでトップの子はカッコいいなあと憧れていました。
ビリがいるからトップがいる。
負があるから正・勝がある。
ビリを作りたくないからと競争・勝負しなかったら、
トップも優れたこと・もの・人も生まれません。
負はダメだからと言ったら、正も勝も無くなります。
4.そのままの状態でちょうど良い
ビリもトップも、枯れもみずみずしさも、
負も正も、…
それぞれをありのまま受け入れることを
今は置き去りにしているようです。
お寺さんの言葉があるので紹介します。
「お前はお前でちょうど良い
顔も身体も名前も姓も
お前のそれはちょうど良い
貧も富も親も子も
息子の嫁もその孫も
それはお前にちょうど良い
幸も不幸も喜びも
悲しみさえもちょうど良い
歩いたお前の人生は
悪くもなければ良くもない
お前にとってちょうど良い
地獄へ行こうと極楽へ行こうと
言ったところがちょうど良い
うぬぼれる要もなく卑下する要もない
上もなければ下もない
死ぬ月日さえもちょうど良い
仏様と二人連れの人生ちょうど良くないはずがない
これで良かったと戴けたとき憶念の信が生まれます」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。