こんにちは、古神道研究家ヒデです。
東日本にあったとされる日高見国(ひたかみのくに・ひだかみこく)を書きます。
東北大学名誉教授 田中英道先生『日本の起源は日高見国にあった』を参照しています。
この記事の目次
日本の起源は日高見国にあった: 縄文・弥生時代の歴史的復元 (勉誠選書) 新品価格 |
1.日高見国とはどんな国
①日高見の場所
日高見国とは『日本書紀』やその注釈書である『釈日本紀』(鎌倉時代)などにでてくる、
かつて日本列島にあった国です。
その名称は、日高・北上・飛騨などの地名として残っています。
岩手県から宮城県に流れている北上川は、
「ひたかみ」→「きたかみ」になったと言われています。
日高見国は「太陽が昇るところを見る国」意味なので、
関東や東北なのでしょう。
②日本書紀では東方の広大な国として
『日本書紀』では第十二代景行天皇の御代に、
武内宿祢(たけうちのすくね)という側近が北陸・東北を視察し
「東方にある広大で肥沃な土地」と日高見国を報告しています。
またヤマトタケルノミコトが東征した時の最終平定地が日高見国です。
③釈日本紀では茨城県
『釈日本紀』では
「第三十六代孝徳天皇の御代つまり大化の改新の時代に、
茨城に新しい行政区として信太(しだ)郡が置かれたと『常陸国風土記』にあるが、
この土地がもと日高見国と呼ばれた地域である」
と解説しています。
これは霞ケ浦の南のほとり、
今の稲敷郡阿見町・美浦村、稲敷市、牛久市、土浦市にあたります。
景行天皇の御代より時代が下って、小国になったのでしょうか。
④ヤマトと日高見国が合体して日本
平安時代に定められた祝詞、大祓詞(おおはらえことば)にも
日本全体を表す言葉として「大倭日高見国(おおやまとひだかみのくに)」
が使われています。
西日本の倭・大和(やまと)と東日本の日高見国が合体して、
日本という国ができたという認識が残されています。
中国の歴史書『旧唐書』(10世紀)『新唐書』(11世紀)にも
日本から来た使者たちが自分たちの国(日本)を
「2つの国が合わさってできた」「小国が大国を併合した」
と説明したとのことです。
2.神宮の謎
①3つの神宮のうち2つは関東にあった
古代から江戸時代まで神宮を名乗ることができたのは、
「大神宮(伊勢神宮内宮)」、「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市)、「香取神宮」(千葉県香取市)
の3つです。
伊勢神宮は第十一代垂仁天皇の御代に建てられたとされます。
残り2つは関東にあり、伊勢神宮よりはるかに古い、
初代神武天皇の御代に創建とされます。
天皇陛下が四方拝され勅使をつかわす神社でもあります。
天皇家と関係の深い鹿島神宮・香取神宮が利根川流域にあったということは、
ここがかつての天皇家の根拠地、日高見国・高天原なのでしょう。
②天照大御神が伊勢にお祀りされているのは
伊勢神宮内宮のご祭神、天照大御神はその名の通り太陽の神様です。
太陽の昇る東の日高見国の神様ではないかと私は思います。
鎮座している伊勢からは、日高見国とその霊峰富士山が見えます。
そのため第十代崇神天皇の御代まで皇居があった大和国に
天照大御神はお祀りされていたのが、お祀り場所を変えることになり、
天照大御神が「私はここ伊勢にいたい」と神託され、
伊勢に決まったのかもしれません。
3.なぜ関東・東北が日本の中心
①縄文・弥生では東日本の人口が圧倒的に多かった
なぜ日高見国は関東・東北にあったのでしょうか。
日本の中心が大陸に近い九州や関西ではなく、
関東・東北にあった理由はなんでしょう。
東京大学大気海洋研究所教授・川幡穂高氏の論文(2009年)によると
「縄文時代の東北から九州に至る日本では、
全人口は縄文中期で最も多く26万人であった。
興味深いのは、関東地方と中部地方で人口密度が最も高いことである。
面積が広い東北地方も人口そのものは多い。
全体の傾向として、縄文時代を通じて、人口は東日本に多く西日本に少ない。
基本的に西日本の人口密度は東日本の1/10にも満たず、
人口密度が東北地方と逆転するのは弥生時代に入ってからである。」
②東日本と西日本の人口比~100対4
川幡氏の詳細な解説をまとめると
●縄文中期(5000年前~4000年前)
全国の人口は26万人で、
東日本(東北・関東・中部)と西日本(近畿・中国・四国・九州)の人口比は、
東日本100に対して西日本は4弱。
関東の人口は9万5400人、近畿は2800人、九州は5300人、
東北は4万6700人、中部は7万1900人。
●縄文後期(4000年前~30000年前)
全国の人口は16万人に減少。
人口比は東日本100に対して、西日本14弱。
関東の人口は5万1600人、近畿は4400人、九州は1万100人、
東北は4万3800人、中部はなんと22万人。
●弥生時代(1800年前)
全国の人口は60万人。
人口比は東日本100に対して西日本68強。
関東の人口は9万9000人、近畿は10万8300人、九州は10万5100人、
東北は3万3400人、中部は8万4200人。
●人口の変化は気候変動によりもたらされたもの。
●縄文後期以降の九州の人口増加は、海外から九州への移民が影響している。
●水田耕作の普及が弥生時代の人口を60万人へと増加させた。
③東日本と西日本の人口比が小さくなっていき逆転へ
西日本の人口は縄文初期は極端に少なく、
九州の阿蘇山や鬼界カルデラ(鹿児島県の南海上)の噴火による火砕流や火山灰で
西日本では住めなかったからのようです。
縄文後期からは海外からの移民と
気候が寒冷化したことで東日本から移り住んだ人々が多かったことにより、
西日本の人口が増えたようです。
そのため東日本(日高見国)と西日本の人口比は
100対4(縄文中期)から100体68(弥生)へと小さくなります。
古墳時代以降は西日本に中国・朝鮮・東南アジアからさらに多くの移民がくるので、
人口比はさらに小さくなり、そして逆転します。
稲作により安定してたくさんの食料供給ができるので、人口が増えます。
全人口も弥生時代の60万人から、
600年後の平安時代には10倍の600万人になりました。
朝鮮半島との交流や遣隋使・遣唐使などで西日本が日本の中心となります。
そして大国となった西日本(ヤマト)と小国となった東日本(日高見国)が合併します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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