高天原は関東にあった?人口の圧倒的に多い東日本が西日本も統治したのが国譲り

こんにちは、古神道研究家ヒデです。

東北大学名誉教授 田中英道先生『日本の起源は日高見国にあった』より

高天原について書きました。



日本神話には高天原があり、天照大御神がいて、須佐之男命がやってきて、

天岩戸物語があり、…などの展開が繰り広げられています。

ではその高天原はどこにあったのでしょう?

様々な説があります。

●天上界だとする説

●海外(中東や中国大陸)だとする説

●日本国内だとする説

ここでは田中英道先生の関東説を紹介します。

縄文時代には全人口の90パーセントが東国、

とくに関東と東北に集中していました。

それが日高見国という国です。

気候の寒冷化に従い、多くの人が西日本へ移動していきました。

「国譲り」「天孫降臨」「神武天皇の東征」は

人口変化に絡む神話のようです。

「国譲り」とは、高天原の天津神である天照大御神が、

葦原中津国つまり地上を治める国津神である大国主命に圧力をかけて

葦原中津国の統治権を譲らせた神話です。

大国主命は国を譲る代わりに

本拠としていた出雲に立派な神殿を建ててもらいます。

出雲大社の由緒です。

東日本で人口増加した結果、人口の少ない西日本も統治する必要が出てきて、

出雲政権の西日本の勢力を

日高見国つまり東日本の勢力が抑えて国内を統一したということです。

「出雲」とは出雲国つまり島根県東部だけでなく、

近畿から九州に至るまでの広範囲の勢力だったのでしょう。

というのは

大和国一宮である大神神社の御祭神が大物主神ですが、

大国主命の別名であるとされます。

つまり大和国も出雲系だったようで、

だとすれば出雲は広範囲に勢力を広げていたと考えられます。

「天孫降臨」が行われます。

天照大御神の孫、ニニギノミコトは九州・日向の高千穂に降臨します。

ここで

ニニギノミコト一行が居住したのが鹿児島とされます。

「鹿児島」の地名は鹿児島神宮由来だそうですが、

その鹿児島はどこから来たのか、不明です。

田中英道先生は、

天孫降臨で出発地は高天原の鹿島(茨城県)だったので、

到着地をそれにちなんで鹿児島にしたのでは、とおっしゃってます。

茨城県の鹿島神宮の近くには

高天原という地名と鬼塚という古墳が残っています。

この辺りがかつての高天原だったのでしょうか。

古代から江戸時代まで「神宮」を名乗れたのは、伊勢・鹿島・香取の三つの神宮だけです。

うち二つは関東にあり利根川をはさんですぐ近く。

皇室とも縁が深くこれだけの格式があるからには、

皇室の根拠地だったなど相応の理由があるはずでしょう。

神武天皇の東征

ニニギノミコトの子孫である神武天皇(即位前はイワレヒコ)は

九州から近畿に入って即位して初代天皇になります。

なぜこのようなことが必要だったのでしょう。

近畿にはニギハヤヒという高天原の神がすでにいました。

しかしニギハヤヒは恭順することを示したので、味方にし尊重します。

ニギハヤヒは物部氏の祖先です。

神武天皇が即位したとされる紀元前663年は、

中国大陸では春秋時代(紀元前770-紀元前476)と呼ばれる戦乱の時代でした。

戦国時代(紀元前475-紀元前221)と続きます。

大陸の戦乱により難民の流入などの危機があり、

大陸に近い九州ではなく、

戦乱の防衛のため近畿に根拠地を移すことにしたのでしょう。

これが東征です。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする